◎はじめまして!
ディヴァインスペースHrDAYAという瞑想&ヒーリングサロンを運営している瞑想、ヒーリング教師のブログ日記です。インドの聖者の智恵から生まれた誰でも簡単にできるフリダヤ瞑想と深い癒しをもたらすシャクティヒーリングを教えています。詳しくは本家サイトをご覧ください。ここでは、瞑想の話し、日々の雑多なお話しとか色々書いていますので楽しんでください。
瞑想伝授の時、二つの事がとても大切になります。一つはマントラを伝授する為のプジャの必要性です。プジャは神聖な儀式であり、この儀式を通じて偉大な聖者や神々の霊的なパワーを受け取りそれをマントラに注入することができます。そして霊的なエネルギーがチャージされたマントラを受け取ることによって生徒は簡単に深いサマディの経験をすることができます。
ただし、まだ初期の段階で生徒に渡されたマントラは種の状態です。偉大な霊的なパワーを内包するマントラではありますが、まだ種の状態であるマントラは、生徒の中に定着するにはしばらく時間がかかります。そのため、最初の伝授においてはマントラを受け取った生徒がよりスムーズにサマディへと到達するために教師がその援助をします。この援助が二つ目に必要な事です。
援助とはこの場合、一緒に座って瞑想をすることを意味します。良く、伝授の時、マントラを渡した後、先生は何をしているのかと聞かれますが、生徒が瞑想に入っている間、私も一緒に瞑想をしています。しかもただ瞑想をしているのではなくて、生徒をより深いサマディへと導くという意図を持って瞑想に入ります。それが、生徒を援助して、より簡単に深い静寂を経験することを可能にしてくれます。
私は生徒と一緒に瞑想するとき自分自身の長い時間を得て体得したサマディの経験と同じ経験が出来るように、同じ場所へと導くという意図と共に瞑想に入ります。この時、マントラは使いません。ただ、サマディへという意図と共に私は私自身の意識をサマディへと導きます。
まだ私が瞑想を教え始めた頃はこの一緒に座って瞑想するという事の意味があまりよくわからなかった時期もあります。マントラは完全なものだから、とにかくマントラさえ渡せば後は自動的にすべてが起きると思っていましたが、実際にはマントラを受け取ってもなかなか深い体験が得られにくい人や、サマディを経験しているけれども、それが何であるか認識することが難しい生徒もいました。
もちろんその頃も一緒にマントラを渡した後、瞑想に入っていましたが、まだ私自身のパワーが低かったんだと今では思います。初期の頃は教え始めた生徒の数も少なく、伝授回数もまだまだ少ない状態でした、この頃は本当にマントラの力にすべてすがるしか無かったと今では思います。マントラが生徒をサマディに連れて行く・・・ただ、それだけを信じるしかありませんでした。
ですが、段々と教える生徒の数も増えてきて、伝授の回数も数百回を越える辺りから、明らかに瞑想を伝授した後の生徒の反応が変わってきました。より深い体験を得る人がドンドン増えて来ました。また、私自身も一緒に瞑想をしていて明らかにその体験が変わってきました。リアルに自分の意識が生徒の意識と一つになってサマディへと導いているという感覚がわかるようになってきました。
何故、この瞑想は口伝でしか伝えられないのか?その理由も分かってきました。
つまり、マントラには力がありますが、それと同時にマントラを受け取った生徒をよりスムーズにサマディへと導く教師のサマディのパワーもそこでは必要なんだということがわかってきました。だからこそ一緒にそばに座る必要があります。
ウパニシャッドという古代ヴェーダの研究書があります。ウパニシャッドは様々な聖人達がヴェーダと呼ぶ古代の神の聖典を理解するために研究を重ねた至高の教えです。ウパニシャッドという言葉は「近くに座す」という意味があります。この意味からウパニシャッドは師から弟子へと伝えられる「秘密の教え=奥義書」と言われています。
ウパニシャッドの哲学者の中でもっとも偉大な聖人がシャンカラですが、シャンカラは自らの教えの中で、「この宇宙の根源的存在であるブラフマンと自らの本性であるアートマンは二つではなくて一つである。」という教えを説きました。一滴の海の水にもすべての海と同じ資質が宿るという考え方を最初に説いた聖人でした。そしてこの考え方があらゆる教え、あらゆる宗教に影響を与えたのはいうまでもありません。
そして、このアートマンとブラフマンの一体感、サマディを得る為には、つまり、「悟りを得る唯一の方法は師のそばに座すことである。」とシャンカラは言っています。シャンカラは特定の技法、瞑想法の必要性は説いていません。むしろ、どんな技法や瞑想法でもこの体験は得られないと言っています。良く、これはシャンカラの伝統の瞑想法だという物がありますが、実際の史実を紐解くとシャンカラが教えた瞑想法あるのかどうかは定かではありません。
恐らくシャンカラがどうやって光明を得たのかはそれは誰にも分かりません。彼は彼自身偉大な神の化身であったと私は思っています。故にそれはテクニック云々で得られる境地ではなかったと思っています。シャンカラとはシバ神の別名です。彼はシヴァ神の化身であったと私は思っています。
そして彼の偉大なる叡智と彼の師から受け取ったパワーによって彼は偉大な悟りと発見に至ったんだと思います。それはテクニックで得たものではありません。
偉大な聖者の足跡をたどる時、いつもそこにあるのは師と神との関係です。聖者達が教える本当の知識や技術というのは目に見える物ではなく、そして瞑想法などというものでもありません。ただ、師のさばにいた者だけが知りうる秘密の教えです。
これは古代のインドの聖人達の教えの伝統でもあります。生徒は師のそばに座り、口伝という形で教えを受けました。師が渡すものは別にマントラでなくても構いません。レンガだろうが、石ころだろうが
そこにパワーがあればそれが生徒を悟りへと導きます。だから師(グル)は絶対必要です。
師はサマディを具現化した存在です。彼自身がブラフマンであり、アートマンであり、そしてサマディそのものでした。シャンカラの時代、恐らく当時はマントラを使った瞑想法が教えられたとは考えにくいです。何故ならサマディそのものである師のそばにいるだけで生徒はその師のサマディの影響を受けて自然にサマディを発見することが出来たと推測されます。そのぐらい当時の師のパワーは偉大だったんだと思います。
現在はそういう偉大な聖人に出会えるチャンスは私達には殆どありません。ですが、今は師とは出会えなくても、サマディへと導くマントラがあります。マントラを使った瞑想はこうしたサマディを具現化した師に出会えない場合でもマントラに宿るサマディのパワーによって生徒をサマディへと導く方法として編み出されたものです。ですが、それだけでは心もとないのも事実です。だからこそ、古代の伝統に沿って生徒はマントラを受け渡す教師のそばに座り、教師と共にサマディへと到達します。
教師はすでにマントラによって十分な瞑想を重ねていればいるほど、そして、沢山の伝授をこなせばこなすほど彼の持つサマディのパワーは大きくなります。そして、その大きなサマディの力がこれから始めて瞑想を通してサマディを発見しようとする生徒の助けとなります。
マントラによってサマディを経験していることは間違いありません。ですが、まだ始めたばかりの場合、たった一人で行う瞑想はまだまだ細い道をたどたどしくサマディへと進むようなものです。なので、十分に経験のある教師と一緒に瞑想をするとやはり体験が変わってきます。
瞑想を伝授した後に生徒にサッドサンガへの出席を勧めるのもその為です。
生徒もまた生徒の「近くに座して」一緒に瞑想をします。それがこの伝統の学びのスタイルであり、瞑想会の目的です。
結論から言えば本当はマントラさえ必要ありません。マントラはサマディへと導くための道具ですが、もしいつも十分な瞑想を重ねた人と一緒に座す事が出来るのなら、別にマントラを使わなくてもサマディを経験することはできます。
何度か私も経験がありますが、まだ瞑想を習ってない人がいるときに一緒に瞑想をしても、まだマントラを持っていない人達も同じように普段とは違った深い落ち着きの経験を得ます。
瞑想が終わった後の感想を聞くと、皆深い静寂や、意識があるけれど眠っているような夢を見ているような、そして何かに気づいている(ヴェーダの中で語られる、眠り、夢、覚醒と、それらを超越した4番目の意識の体験=トゥリヤ)という経験を皆しています。
ただ、一緒に座すだけで、人は本当はサマディを経験できるんだという一つの証明だと私は思っています。ただ、その場合は家に帰って一人で目を閉じても同じ体験は得られないでしょう。だから、やはり正式に瞑想を習うことは必要だと思います。
人が人に教える、このシステムこそ伝統の素晴らしさだと私は思います。先生のそばに生徒が座り、生徒のそばにまた別の生徒が座りそして、何かを学ぶ、古代からこの形は変わっていません。テクニックが素晴らしいのでもなければ、マントラという言葉が素晴らしいのではなくて、こうした人から人へと紡がれていくシステム、それが真の伝統だと私は思います。
これはどのグルの教えで、このマスター、この神の教えの伝統だから、その神とは違うものだ、グルが違うから別のものだと言う人たちは何を勘違いしているのか?と思います。
ラーマクリシュナはこう言っています。
「しかし、このように考えてはいけない。
我が神だけが正しく、他の神は誤まりと。
ひとつの貯水池に、いくつもの水汲み場がある。
そこから、汲み上げた水のことを、
ヒンドゥー教徒は、ジャラと呼び、
イスラーム教徒は、パーニと呼び、
キリスト教徒は、ウォーターと呼び、
あるいは、アクアと呼ぶ、人達もいる。
一つの神に、いろいろな名前がついている。」
「教授」という言葉あります。ただ一方的に教えるのではなくて、教える側もまた受け取るのが本当の教えです。生徒は先生を信頼して、そして尊敬を持って接します。そして、先生は生徒に向けて自分の持つパワーと知識のすべてを渡すために最善の努力をします。それが理想的な先生と生徒の関係です。
こうした古代から続く関係性に想いを馳せるとき、いつも背筋がシャッキとする気がします。
それが伝統であり、神と人が融合する為の道です。
私はあなたの側に座ります。そして、あなたは私の側に座ります。目指すはただ一つの為に・・・・ただ神を知る為に・・・・!
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どんな人でも自分の思い通りの人生を生きたい、自分の願望が叶ったらどんなに良いだろうと思うのは当然の事です。ですが、実際には人生には様々な障害があり、なかなか自分の思い通りにはいかないものです。
何故か?それには色々な原因が考えられますが一つはカルマの問題です。カルマとはここでは摩擦、障害という意味だと思って下さい。人生において存在する様々な邪魔や障害がカルマです。そしてその障害によってなかなか自分の願望が叶えられず達成されるのにも時間がかかります。カルマには障害や摩擦の意味ともう一つは時間という意味もありますから、カルマが沢山ある時それだけ物事の成就は先送りされてとても長い時間がかかります。
では何故そんなにも時間がかかるような人生を私たちは生きるのかというと、それはもう誰のせいでもなく人類全体の問題です。かつて遠い昔に人は自然の秩序から逸脱してしまいました。その結果、宇宙に沢山の摩擦を作り出しました。そのツケを今人類全体で経験していると言えます。
この沢山の障害から自分の願望を叶えて、真の成功を得る方法は唯一しかありません。それは元あった自然な秩序ある状態に立ち返る事です。そして自然の流れの中で人生を生きる事それしかありません。ですが、人はなかなかその自然の流れを見つけることが出来ません。何故なら、もう何が自然で何が秩序ある状態かさえ忘れてしまっているからです。この肉体はカルマによって作られていると言えますし、その人生もまたどこを見ても摩擦に満ちています。
自分を自分だと思っているその人格も精神も感情も思考もすべてがカルマの汚染によって本当の自然な状態というのを忘れてしまっています。自力でその状態から抜け出してカルマの影響の無い自然の感覚を取り戻すことが非常に困難な状態になっています。
では、どこにもその状況から抜け出す道は無いのか?というとそうではありません。「バカヴァッド・ギータ」と言う教典にはこう記述されています。「本当の自分(真我)を発見するにはすべてを越えなければならない!」そして、それは内なる部分にのみあると・・・・
瞑想はその為のツールです。自分の内側に入って行き、すべての領域を越えたところに唯一存在する真実の自己、それがアートマン(真我)です。そしてそれは同時にブラフマー(宇宙の実存、「空」)です。自らの中に入っていき、本当の自己に触れたとき人はすべてを思い出します。それは「アハン ブラーフマー スミ(我は実存なり!)という言葉で表現される完全なる自己の発見です。
自分自身が完全なる宇宙の実存であるブラフマー(「空」)と一つであると知ったとき、人は完全なる秩序だった状態を取り戻します。何故なら、「空」のみがカルマの影響を受けないただ一つの純粋な存在だからです。そこと一つになるとき人もまたカルマの影響から逃れることができます。その時人は初めて本当の自然な状態とは何かを知ります。今までがいかに自然の秩序からはずれバランスを欠いた状態だったかを知ります。そしてそれ以降はその完全なる自然の秩序に沿った人生を生きるようと努力します。「ヨーガ(真我)スタハ クルカルマーニ(に立脚して生きる)」という言葉がそれです。
瞑想によって自分の本来の状態を知ったのなら後はその状態を維持(毎日の瞑想)することと、毎日の生活の中で自然の秩序に沿った行動を取ることです。この宇宙の管理者である大いなる神々の意志を感じ、神の意志に沿った生き方を選ぶことです。そうすると自分の願望を叶えて、本当の成功を手にするのがより簡単になってきます。
「空」を知り、摩擦のある状態から抜け出すことでバランスが回復するからです。その結果、障害が少なくなるにつれて自分の願望がより叶いやすくなります。ですが、それだけではまだ足りません。もう一つの問題があります。それはその願望の質です。どんな願望を持つか?ということが大切になってきます。
宇宙はそもそも何も私たちを苦しめる為に存在している訳ではありません。「空」に立脚した人生を生きるように自分を変えていき、考え方や行動パターンに変化が見られてくると自然と周りの環境はより自分に好意的になって来ます。そうすると元々この世界は自分の願いを受け止めてくれる優しい受け皿であり、協力者であるということが分かってきます。
そうなると後は自分が何を願うのか?ということが重要になってきます。個人の欲望だけに基づく願望や、誰かを滅ぼすような願望ではどんなに自然の流れに沿った人生を生きていてもその願望は叶う事はありません。もっとも本当に自身が自然に沿った行動を取っているときそのような願望自体しなくなるのが普通ですが。
個人の欲望よりも、全体の欲望を優先することが大切になってきます。私が幸せになることは確かに大切ですが、それと同時に皆も同時に幸せになる願望で無ければなりません。ここで一番大切なのは、自分から至福感をもってすべての願望を包み、宇宙に委ねることです。あなたの仕事は喜びの中からこんな事が出来たら自分もみんなも幸せになれるかもしれない!と感じたのならそれを宇宙に放つことです。後は宇宙にすべての計画を任せなさい。
決して、自分ですべてをコントロールしようとか、プロセスのすべてを自分で行おうとしないことです。あなたは喜びと共に願うだけです。後の細かいことは宇宙がやってくれます。何故なら宇宙は元々完全だからです。あなたが自らの中に完全なる「空」の意識を宿しそこに意識を合わせて生きる限り、宇宙もまたその完全性を基準として動き出します。世界はあなたの見るままにあなたにこの世界を与えます。
ですから、外側の基準で自分の願いを変えてはいけません。至福と共にあなたが感じるもっとも高い願望にだけ意識を向けてください。その願望がどのように叶えられるかには関心を向けません。それは宇宙が行います。あなたが成功する秘訣はあなたの願望を至福に包み、あなたの願望を妨げる障害には一切目を向けないことです。
本当の事を言えば、あなたのその願望があなたを幸せにする訳ではありません。まず最初にあなたが幸せでいるとき、すべての願いはあなたのその至福感をより強調する補佐的なものとして現実化します。これは宇宙からのあなたへのメッセージです。あなたはこんなにも幸福だという宇宙からのギフトです。「喜びは喜びを生み、痛みは痛みを生む。」この原理原則に従って宇宙はすべての出来事を起こします。
人は自らの内側でただ幸せになる時、世界に幸せが訪れます。自らが喜びの創造主であることを思い出しましょう。喜びはあなたが作り出すものであり、あなたが手にするものがすべてその喜びを倍増させる道具になります。この宇宙には本当はあなた以上に喜びに満ちたものなど存在しません。
大いなる存在(創造主)は自らの至福感をより楽しむ為にこの宇宙という庭を造りました。そして、人はその大いなる存在に似せて作られました。人だけが願います。それは大なる存在がもっと世界を遊びたいと願ったと同じように人も願います。自らの喜びを知る為に・・・・
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では何故そんなにも時間がかかるような人生を私たちは生きるのかというと、それはもう誰のせいでもなく人類全体の問題です。かつて遠い昔に人は自然の秩序から逸脱してしまいました。その結果、宇宙に沢山の摩擦を作り出しました。そのツケを今人類全体で経験していると言えます。
この沢山の障害から自分の願望を叶えて、真の成功を得る方法は唯一しかありません。それは元あった自然な秩序ある状態に立ち返る事です。そして自然の流れの中で人生を生きる事それしかありません。ですが、人はなかなかその自然の流れを見つけることが出来ません。何故なら、もう何が自然で何が秩序ある状態かさえ忘れてしまっているからです。この肉体はカルマによって作られていると言えますし、その人生もまたどこを見ても摩擦に満ちています。
自分を自分だと思っているその人格も精神も感情も思考もすべてがカルマの汚染によって本当の自然な状態というのを忘れてしまっています。自力でその状態から抜け出してカルマの影響の無い自然の感覚を取り戻すことが非常に困難な状態になっています。
では、どこにもその状況から抜け出す道は無いのか?というとそうではありません。「バカヴァッド・ギータ」と言う教典にはこう記述されています。「本当の自分(真我)を発見するにはすべてを越えなければならない!」そして、それは内なる部分にのみあると・・・・
瞑想はその為のツールです。自分の内側に入って行き、すべての領域を越えたところに唯一存在する真実の自己、それがアートマン(真我)です。そしてそれは同時にブラフマー(宇宙の実存、「空」)です。自らの中に入っていき、本当の自己に触れたとき人はすべてを思い出します。それは「アハン ブラーフマー スミ(我は実存なり!)という言葉で表現される完全なる自己の発見です。
自分自身が完全なる宇宙の実存であるブラフマー(「空」)と一つであると知ったとき、人は完全なる秩序だった状態を取り戻します。何故なら、「空」のみがカルマの影響を受けないただ一つの純粋な存在だからです。そこと一つになるとき人もまたカルマの影響から逃れることができます。その時人は初めて本当の自然な状態とは何かを知ります。今までがいかに自然の秩序からはずれバランスを欠いた状態だったかを知ります。そしてそれ以降はその完全なる自然の秩序に沿った人生を生きるようと努力します。「ヨーガ(真我)スタハ クルカルマーニ(に立脚して生きる)」という言葉がそれです。
瞑想によって自分の本来の状態を知ったのなら後はその状態を維持(毎日の瞑想)することと、毎日の生活の中で自然の秩序に沿った行動を取ることです。この宇宙の管理者である大いなる神々の意志を感じ、神の意志に沿った生き方を選ぶことです。そうすると自分の願望を叶えて、本当の成功を手にするのがより簡単になってきます。
「空」を知り、摩擦のある状態から抜け出すことでバランスが回復するからです。その結果、障害が少なくなるにつれて自分の願望がより叶いやすくなります。ですが、それだけではまだ足りません。もう一つの問題があります。それはその願望の質です。どんな願望を持つか?ということが大切になってきます。
宇宙はそもそも何も私たちを苦しめる為に存在している訳ではありません。「空」に立脚した人生を生きるように自分を変えていき、考え方や行動パターンに変化が見られてくると自然と周りの環境はより自分に好意的になって来ます。そうすると元々この世界は自分の願いを受け止めてくれる優しい受け皿であり、協力者であるということが分かってきます。
そうなると後は自分が何を願うのか?ということが重要になってきます。個人の欲望だけに基づく願望や、誰かを滅ぼすような願望ではどんなに自然の流れに沿った人生を生きていてもその願望は叶う事はありません。もっとも本当に自身が自然に沿った行動を取っているときそのような願望自体しなくなるのが普通ですが。
個人の欲望よりも、全体の欲望を優先することが大切になってきます。私が幸せになることは確かに大切ですが、それと同時に皆も同時に幸せになる願望で無ければなりません。ここで一番大切なのは、自分から至福感をもってすべての願望を包み、宇宙に委ねることです。あなたの仕事は喜びの中からこんな事が出来たら自分もみんなも幸せになれるかもしれない!と感じたのならそれを宇宙に放つことです。後は宇宙にすべての計画を任せなさい。
決して、自分ですべてをコントロールしようとか、プロセスのすべてを自分で行おうとしないことです。あなたは喜びと共に願うだけです。後の細かいことは宇宙がやってくれます。何故なら宇宙は元々完全だからです。あなたが自らの中に完全なる「空」の意識を宿しそこに意識を合わせて生きる限り、宇宙もまたその完全性を基準として動き出します。世界はあなたの見るままにあなたにこの世界を与えます。
ですから、外側の基準で自分の願いを変えてはいけません。至福と共にあなたが感じるもっとも高い願望にだけ意識を向けてください。その願望がどのように叶えられるかには関心を向けません。それは宇宙が行います。あなたが成功する秘訣はあなたの願望を至福に包み、あなたの願望を妨げる障害には一切目を向けないことです。
本当の事を言えば、あなたのその願望があなたを幸せにする訳ではありません。まず最初にあなたが幸せでいるとき、すべての願いはあなたのその至福感をより強調する補佐的なものとして現実化します。これは宇宙からのあなたへのメッセージです。あなたはこんなにも幸福だという宇宙からのギフトです。「喜びは喜びを生み、痛みは痛みを生む。」この原理原則に従って宇宙はすべての出来事を起こします。
人は自らの内側でただ幸せになる時、世界に幸せが訪れます。自らが喜びの創造主であることを思い出しましょう。喜びはあなたが作り出すものであり、あなたが手にするものがすべてその喜びを倍増させる道具になります。この宇宙には本当はあなた以上に喜びに満ちたものなど存在しません。
大いなる存在(創造主)は自らの至福感をより楽しむ為にこの宇宙という庭を造りました。そして、人はその大いなる存在に似せて作られました。人だけが願います。それは大なる存在がもっと世界を遊びたいと願ったと同じように人も願います。自らの喜びを知る為に・・・・
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仕事を通じて一番嬉しいことは自分の気持ちを形にできることです。自分が得たものや、経験したことを通じてそれが誰かの助けになったり、多くの人の人生がより良いものになるとしたらそれ以上の喜びはありません。
ヒーリングにしろ、瞑想の指導にしろ、スピリッチャルな事を仕事にして一番楽しいのは愛を形にできることだと思います。愛や、神という言葉を私は良く使います。たぶん、1日の中でその言葉を使わない日は殆どないでしょう。実際じゃあ愛とは神とは?と言ってもそれは人それぞれまったく異なる捉え方をしていると思います。でも、それをどう捉えるかはみんな各自の自由です。ただ、神、愛という言葉から連想するハートから生まれる何かしらの暖かいものがあればそれがその人の愛であり、神です。
自分が出会った人達が生きている喜びを持てるようになり、自分を愛し、周りを愛せるようになれるには自分なりに何ができるか?いつもその事にだけコミットしています。もう議論しあったり、争う事には興味がありません。そんな時間を過ごすのなら瞑想するか、神のマントラを唱える、後は我が家の猫と遊んでいる方がずっと有意義です(笑)。
今週末はサッドサンガ(瞑想会)とソウルチャネルワークショップを予定しています。サイトをリニューアルしてまだ日が浅いですが、すでに瞑想とヒーリングの予約もボチボチ入って来ています。人助けと言うほど大げさなものではないですが、日々誰かの笑顔に触れられるのがこの上なく嬉しいです。
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自分が出会った人達が生きている喜びを持てるようになり、自分を愛し、周りを愛せるようになれるには自分なりに何ができるか?いつもその事にだけコミットしています。もう議論しあったり、争う事には興味がありません。そんな時間を過ごすのなら瞑想するか、神のマントラを唱える、後は我が家の猫と遊んでいる方がずっと有意義です(笑)。
今週末はサッドサンガ(瞑想会)とソウルチャネルワークショップを予定しています。サイトをリニューアルしてまだ日が浅いですが、すでに瞑想とヒーリングの予約もボチボチ入って来ています。人助けと言うほど大げさなものではないですが、日々誰かの笑顔に触れられるのがこの上なく嬉しいです。
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5元素のうちもっとも重要なのは「空」の要素です。そして、「空」の要素があるからこそ他の4元素の全てが生き生きとしてきます。だから、瞑想はとても大切です。フリダヤ瞑想はこれまでの私自身の経験からも「空」の要素をもっとも高める瞑想です。そして、自身の内側に「空」の体験をもたらし、他の4元素のエネルギーを導く土台作りに最適です。
大切なのはバランスです。ですから幾ら「空」がすべての源だと言っても、ただ闇雲に「空」のみを強めると色々な弊害も出てきますからバランス良くすべての要素を強めて行く必要があります。ただ闇雲に何ヶ月も瞑想にだけ浸り、「空」を強化するだけでは瞑想の体験は確かに深まりますが現実生活がおろそかになります。そして、次第に仕事や現実への興味が無くなるのでは何のためにこの世に生を受けたのか?そして、自分のダルマ(使命)を果たすという約束を成就できませんから逆に悟りから遠のくことになります。
こうした反省からディヴァインスペースHrDAYAでは「空」を強めるだけでなくて、他の4元素のエネルギーとの繋がりも重視するようにしています。瞑想はとても大切ですし、十分な「空」の体験と自己浄化の為にフリダヤ瞑想を教えていますが、フリダヤ瞑想とプラスして4元素のエネルギーとの繋がりを教えることもまた大切だと思っています。
その為、10年以上に渡る瞑想指導の中でただ瞑想を教えるカリキュラムからより本当の真理について教えるカリキュラムに今は変わっています。そして今では自分の教えにとても自信を持っています。
4元素とは風、火、水、地ですが、これらの4元素を強めるのにもっとも大切な事は神との繋がりを強めることです。フリダヤ瞑想や多くの深いサマディを得る瞑想法に一番欠けているのはこの神との繋がりです。サマディの体験に不可欠な「空」のみがクローズアップされてしまうと他の4元素が弱くなり、その結果バランスを欠いてしまいます。
何故神との繋がりが4元素と関わるかというと、この宇宙のすべてはこの4元素のエネルギーによって作り出されています。そして、この宇宙の創造者はマザーディヴァインと呼ばれる女神です。インドの神話では「空」の管理者あるいは「空」を人格神として象徴するのはシヴァ神です。シヴァは「空」そのものを表します。そして、シヴァと対を為すのがその神姫であるパールバティー神です。パールバディーは沢山の別名を持ちます。カーリ神、ドルガー神、そして、マザーディヴァイン(聖なる母)もその別名です。
すべての実存は「空」です。「空」こそがすべてです。そしてそれはシヴァです。パラシヴァ(ビシュヌ神を最高神として考える人達はパラビュシュヌー、ブラフマー神ならパラブラフマー)と言います。パラシヴァはシヴァの絶対的な側面であり、それは実体を持たない空間に満ちた存在です。つまり「空」の事です。そしてそのパラシヴァから生まれた聖なる母によって宇宙は創造されました。しかし、聖なる母でさえシヴァから見ればそれは幻です。それをマーヤと言います。マーヤは幻想です。
宇宙は幻だというのはその為です。「空」を知り、「空」の視点から見ればこの宇宙のすべては幻です。はかない夢です。
ですが、その幻である宇宙に私達は生きています。そして、幻ではあるけれど、マザーの力は偉大です。そのパワーは絶大です。そしてそのマザーの力、あるいは神(シヴァあるいは「空」)が実際に力を具現化するときの力のことをシャクティと言います。その為シャクティは神の具現化した力を意味し、またシャクティは女神の別名でもあります。
宇宙を作り出す力そのものがシャクティです。そしてそれこそが4元素です。
なので、その4元素を強めたい場合、一番簡単でしかも確実なのが神を自分の中に招き力を貸して貰うことです。信仰を持ちなさいという理由はそこにあります。
ただし、フリダヤ瞑想ではそれほど強く信仰を瞑想者には強要しません。理由は信仰には抵抗のある人もいるでしょうし、まだ神の力や本当のパワーというものを知らない人もいるのでまずはマントラを通じて間接的に神のエネルギーを経験し、その力によって「空」に連れて言って貰うようにデザインされています。
最初のマハマーヤがパールバティ神のマントラである所も気がつかないうちに神との繋がりを
持って「空」に行くようにしているからです。マハマーヤマントラはこの宇宙のマザーのマントラであり、またマーヤを駆逐する力を持ちます。
瞑想者はこの時点では神のパワーを強烈に自覚するには至りませんが、いずれより強く神と繋がりたいと思うようになる時に必要な力が与えられるように最初からその土台を作る為にフリダヤ瞑想のそれぞれのマントラは用意されています。(神との強い信仰と繋がりの中で本格的にシャクティを得るのはヴェーダシャクティ冥想を習う必要があります。)
あなたがすべての超越者として、この宇宙のあるいはこの人生という現実のすべてを放棄して、隠遁者として生きるのなら「空」のみを求めれば良いです。その場合はただ瞑想だけを繰り返して「空」と一つになりなさい。そうすればあなたはすべてを超越します。ですが、あなたはこの宇宙の石ころ一つさえあなたの自由にはなりません。
もしこの宇宙において幸せと満ち足りた人生を生きたいのなら「空」だけではなくて他の4つのエネルギーとも繋がりなさい。そしてそれには神に祈りを捧げなさい。この宇宙の石ころ一つでさえそれは神のものです。だからあなたは神に許可を求める必要があります。そして神が許可をあなたに与えればあなたは石ころだけではなくて、この宇宙のすべての物を自由に動かすことができます。
あなたの魂が「空」に満ち、ブラフマンとアートマンの一体化の中でシャクティという4つの風を周りに纏うとき、5つのすべての要素がバランスされます。それが真に完成された人の姿です。
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それがどの様な瞑想であれ、どの様な心の変える技法であれ、それだけでは最終的なゴールには到達できません。またいかに神や、マスターと呼ばれる導き手に身を委ねて献身の気持ちを持ったとしてもそれだけでもあなたの心が高いステージに達する事はありません。
瞑想にしろ、導き手の助けはすべてきっかけにしか過ぎません。
テクニックや行法はハードウエアです。それだけを教わり得ても、毎日の自分の積み重ねが
なければ変わりません。それはソフトウエアの問題です。
このグルに、このマスターについて色々とプジャを受け、様々な方法を学んだのに変わらないというのならそれは本人に問題がある可能性があります。
ヨーガの聖典、パタンジャリ・マハリシのヨーガスートラではこのことについてこう述べています。
「自分を高める為の、あるいは悟りに到達するための瞑想法は別に一つだけではなく、あなたの心が高揚できるものであればそれは結局はなんでもかまわない。」と言っています。
どれか特定のテクニックが素晴らしいとかこれじゃないと駄目ということは無いのです。また、導き手となる者からのイニシエーションを受けるか否かもどちらでも良いとパタンジャリは言います。ただ、自分よりもより詳しい道を知るものに学ぶ方が道に迷うことなく早くゴールに到達できることは確かです。
あるいは特定の方法があればそれに従って学ぶ方が早いことも間違いありません。
ですが、それらだけでは本当のゴールを得ることはないとパタンジャリは語ります。
サマディ(悟り)の体験には大きく分けると2種類あります。
一つめはまだ種の残るサマディ、二つ目がもう種が無くなった完全のサマディです。
種とはこれは過去の行いの印象、つまりカルマの事です。過去の印象、記憶です。それをサムスカーラと言います。種が無いと言うことはもう過去の印象や記憶、一切のカルマが存在しない状態です。
実はまだカルマがあっても、過去の印象や記憶があっても、高いサマディの経験は努力次第では誰でも得ることができます。「知る者と知られる者とそれらを結ぶプロセス」や、完全に一つになって対象と自分が一体化するサマディの体験はカルマがあろうがなかろうが得ることは可能です。
インドではそれで良く悪魔がヨギに弟子入りしてサマディを経験して神通力(シッディ)を得て、神々を困らせるという話しが良くあります。つまり悪魔だって瞑想したり修行すればある程度の悟りは得ることができるんです。でもそれはあくまで種のある状態のサマディです。ですが、それでも沢山のシッディが得られますし、不老不死になれたりできます。
ですが、まだカルマが残っている状態(まだ種の残るサマディ)でのサマディはいつでも簡単に以前のサマディを得てない状態に戻ってしまう危険性があります。いつでも簡単に転落してしまう可能性を秘めたサマディです。そこで経験する様々な体験はすべてカルマの影響を受けるのでとてもあやふやで危険性を含んでいます。自分はとても深い瞑想の体験をしている、もっと「空」を感じているし、とても成長していると思ってもまだ種がある状態ではいつでもその体験は失われる可能性があるということを忘れてはいけません。大切な作業が抜けています。
ですが、種のない状態、過去の印象(サムスカーラー)が心の中からまったくなくなって、透明な状態になっているとき瞑想によって得られたマディの体験は永遠にもう失われることがなくなります。それが完全にゴールに到達したサマディの体験です。
これら二つのサマディの状態、種のある状態と種の無い状態では、例え同じように素晴らしい存在を認識したとしても一瞬のうちに種のある状態ではカルマの影響があるためにその対象を誤認したり、エゴの罠に陥る可能性を含んでいます。
例えどんなに瞑想によって「空」をどれだけ経験して良い体験を重ねていてもまだ過去の印象が無くなってないと簡単に認識の誤りが起こります。なので、それはとても危ういものです。
ではどうやったら種無しの状態になることができるのでしょうか?過去の印象を消す事ができるんでしょうか?そのことについてそれは瞑想でも、マスターへの献身でもなく、本当に普段の自分自身の心のあり方、行い、言動、それらがすべて正されないと駄目だと言います。つまりそれが瞑想とは別の大切な作業です。
つまり、いつもエゴを常に監視して、清浄な心を持ち続けなさいということです。
いつも誠実でありなさい。正しいことをすることを心がけなさい、嘘をつかないこと、人を妬まないこと、憐れみとやさしさをもって人とは紳士的に関わること、人を敬い礼儀と謙虚さを決して忘れないことです。
これが無いとどんなに瞑想だけしていても本当のゴールには到達できません。悪魔が沢山の偉大な力を手にしても最終的には完成された悟りに至ることが出来なかった理由は結局これが無いからです。心をいつも正しくあろうとする気持ちが無かったからです。
パタンジャリはむしろ瞑想やテクニックよりもそうした心のあり方こそがその人が本当のゴールに到達する大切なものだと言っています。心の浄化を日々毎日の生活の中で心がけるとき自分がやっている瞑想にしろどのようなテクニックにしろ本当に生きてきます。逆を言えばそれがなければテクニックだけでは何も変わりません。
瞑想しているのにこの人はいつまでたっても相変わらずだな〜、なんでこんなおかしな事ばかりするんだろう〜、どこかずれているんだけど!と思われる人と、会うたびにどんどん成長して良くなっていく人との違いは結局は日々実習している瞑想の体験の違いではなくて、その人の普段の心がけの違いです。
まっすぐな心を持ち続けることが大切です。
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テクニックや行法はハードウエアです。それだけを教わり得ても、毎日の自分の積み重ねが
なければ変わりません。それはソフトウエアの問題です。
このグルに、このマスターについて色々とプジャを受け、様々な方法を学んだのに変わらないというのならそれは本人に問題がある可能性があります。
ヨーガの聖典、パタンジャリ・マハリシのヨーガスートラではこのことについてこう述べています。
「自分を高める為の、あるいは悟りに到達するための瞑想法は別に一つだけではなく、あなたの心が高揚できるものであればそれは結局はなんでもかまわない。」と言っています。
どれか特定のテクニックが素晴らしいとかこれじゃないと駄目ということは無いのです。また、導き手となる者からのイニシエーションを受けるか否かもどちらでも良いとパタンジャリは言います。ただ、自分よりもより詳しい道を知るものに学ぶ方が道に迷うことなく早くゴールに到達できることは確かです。
あるいは特定の方法があればそれに従って学ぶ方が早いことも間違いありません。
ですが、それらだけでは本当のゴールを得ることはないとパタンジャリは語ります。
サマディ(悟り)の体験には大きく分けると2種類あります。
一つめはまだ種の残るサマディ、二つ目がもう種が無くなった完全のサマディです。
種とはこれは過去の行いの印象、つまりカルマの事です。過去の印象、記憶です。それをサムスカーラと言います。種が無いと言うことはもう過去の印象や記憶、一切のカルマが存在しない状態です。
実はまだカルマがあっても、過去の印象や記憶があっても、高いサマディの経験は努力次第では誰でも得ることができます。「知る者と知られる者とそれらを結ぶプロセス」や、完全に一つになって対象と自分が一体化するサマディの体験はカルマがあろうがなかろうが得ることは可能です。
インドではそれで良く悪魔がヨギに弟子入りしてサマディを経験して神通力(シッディ)を得て、神々を困らせるという話しが良くあります。つまり悪魔だって瞑想したり修行すればある程度の悟りは得ることができるんです。でもそれはあくまで種のある状態のサマディです。ですが、それでも沢山のシッディが得られますし、不老不死になれたりできます。
ですが、まだカルマが残っている状態(まだ種の残るサマディ)でのサマディはいつでも簡単に以前のサマディを得てない状態に戻ってしまう危険性があります。いつでも簡単に転落してしまう可能性を秘めたサマディです。そこで経験する様々な体験はすべてカルマの影響を受けるのでとてもあやふやで危険性を含んでいます。自分はとても深い瞑想の体験をしている、もっと「空」を感じているし、とても成長していると思ってもまだ種がある状態ではいつでもその体験は失われる可能性があるということを忘れてはいけません。大切な作業が抜けています。
ですが、種のない状態、過去の印象(サムスカーラー)が心の中からまったくなくなって、透明な状態になっているとき瞑想によって得られたマディの体験は永遠にもう失われることがなくなります。それが完全にゴールに到達したサマディの体験です。
これら二つのサマディの状態、種のある状態と種の無い状態では、例え同じように素晴らしい存在を認識したとしても一瞬のうちに種のある状態ではカルマの影響があるためにその対象を誤認したり、エゴの罠に陥る可能性を含んでいます。
例えどんなに瞑想によって「空」をどれだけ経験して良い体験を重ねていてもまだ過去の印象が無くなってないと簡単に認識の誤りが起こります。なので、それはとても危ういものです。
ではどうやったら種無しの状態になることができるのでしょうか?過去の印象を消す事ができるんでしょうか?そのことについてそれは瞑想でも、マスターへの献身でもなく、本当に普段の自分自身の心のあり方、行い、言動、それらがすべて正されないと駄目だと言います。つまりそれが瞑想とは別の大切な作業です。
つまり、いつもエゴを常に監視して、清浄な心を持ち続けなさいということです。
いつも誠実でありなさい。正しいことをすることを心がけなさい、嘘をつかないこと、人を妬まないこと、憐れみとやさしさをもって人とは紳士的に関わること、人を敬い礼儀と謙虚さを決して忘れないことです。
これが無いとどんなに瞑想だけしていても本当のゴールには到達できません。悪魔が沢山の偉大な力を手にしても最終的には完成された悟りに至ることが出来なかった理由は結局これが無いからです。心をいつも正しくあろうとする気持ちが無かったからです。
パタンジャリはむしろ瞑想やテクニックよりもそうした心のあり方こそがその人が本当のゴールに到達する大切なものだと言っています。心の浄化を日々毎日の生活の中で心がけるとき自分がやっている瞑想にしろどのようなテクニックにしろ本当に生きてきます。逆を言えばそれがなければテクニックだけでは何も変わりません。
瞑想しているのにこの人はいつまでたっても相変わらずだな〜、なんでこんなおかしな事ばかりするんだろう〜、どこかずれているんだけど!と思われる人と、会うたびにどんどん成長して良くなっていく人との違いは結局は日々実習している瞑想の体験の違いではなくて、その人の普段の心がけの違いです。
まっすぐな心を持ち続けることが大切です。
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本当の自分を発見したい、もっとはつらつとした人生を行きたい、自分の本当に望む人生を歩みたい、健康になりたい、人間関係を解決したい・・・・・
そんな悩みを解決し、望みを叶えたいのなら、まずとりあえず座りなさい!
そして、瞑想をすることです。
そんな悩みを解決し、望みを叶えたいのなら、まずとりあえず座りなさい!
そして、瞑想をすることです。
瞑想だけでは悟りを得られないと私は書いていますが、悟りは究極のゴールです。そこに至るには瞑想だけでは不十分だと言っているだけで、瞑想がまったく効果のないものだとは
思っていません。でなければ30年近く私自身、今も瞑想を実習し、また瞑想の教師をやっている筈はありませんから。
瞑想はそれがどんな方法であれ、あなたが惹かれる方法ならそれを試してみなさい。
そして、とにかく毎日自分自身の為に座ることです。
その方法が正しいもので、正しい指導者の元で学ぶ瞑想法であれば必ず効果が出てきます。一週間もすればきっと以前よりもずっと心の落ち着きを感じるようになるでしょう。
真面目に一ヶ月も続ければ身体の不調もある程度改善されてきます。3ヶ月もすれば人間関係の問題も気にならなくなります。半年、一年を続ける中でもっと精神的な向上や、魂の学びを深めたいと思うようになるでしょう。
あなたのカルマとストレスが浄化されるにつれてあなたはより深い気づきと魂の成長を経て、もっと深い教えに出会い、真のスピリチャルな道に足を踏み入れるようになります。時期がくれば適切なグルや、マスターに出会うときも来ます。それはずっと先かもしれませんが、最初のきっかけは皆同じです。
最初のきっかけはなんであれ、まずは座ってみることです。
そうすればきっと何かを発見するはずです。
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思っていません。でなければ30年近く私自身、今も瞑想を実習し、また瞑想の教師をやっている筈はありませんから。
瞑想はそれがどんな方法であれ、あなたが惹かれる方法ならそれを試してみなさい。
そして、とにかく毎日自分自身の為に座ることです。
その方法が正しいもので、正しい指導者の元で学ぶ瞑想法であれば必ず効果が出てきます。一週間もすればきっと以前よりもずっと心の落ち着きを感じるようになるでしょう。
真面目に一ヶ月も続ければ身体の不調もある程度改善されてきます。3ヶ月もすれば人間関係の問題も気にならなくなります。半年、一年を続ける中でもっと精神的な向上や、魂の学びを深めたいと思うようになるでしょう。
あなたのカルマとストレスが浄化されるにつれてあなたはより深い気づきと魂の成長を経て、もっと深い教えに出会い、真のスピリチャルな道に足を踏み入れるようになります。時期がくれば適切なグルや、マスターに出会うときも来ます。それはずっと先かもしれませんが、最初のきっかけは皆同じです。
最初のきっかけはなんであれ、まずは座ってみることです。
そうすればきっと何かを発見するはずです。
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なぜ神に祈る必要があるのでしょうか?
理由は神の助けがなければ私たちはこの世界で本当の悟りや本当の幸福を得られないからです。
どんなに自分一人の力で努力しようとも、あなただけの力で何かを得ることは不可能です。
何故なら、この世界はすべて神の力によって動かれています。
理由は神の助けがなければ私たちはこの世界で本当の悟りや本当の幸福を得られないからです。
どんなに自分一人の力で努力しようとも、あなただけの力で何かを得ることは不可能です。
何故なら、この世界はすべて神の力によって動かれています。
神はサトワ(創造)、ラジャス(維持)、タマス(破壊)の3つのエネルギーの動きそのものです。
そして、この3つの動きから5つの要素(空間、風、火、水、土)が生み出されてます。
神はこの5つの要素を使いすべてのものを創造しました。
シヴァ神は5大要素を使い、宇宙を作り出します。
あらゆる神々達が行う奇蹟はすべて5大要素を動かすことで生み出されます。
5大要素の影響から離れて生きることはできません。この地上に生受けたものは誰もが5大要素の管理下に置かれます。
いかに偉大な聖者であれ、5大要素を無視して生きることはできません。
そして、この5大要素はすべて神の手の中にあります。
もし、5大要素のバランスが崩れると人は不幸になります。
精神的におかしくなたったり、物質的に困窮したりします。
すべては自然界の5大要素とその人自身とのバランスが崩れていることから生じます。
そのバランスを復活させることであらゆる問題は解決されます。
そして、バランスを復活させるには古代から特定の神への祈りがもっとも大切だとされています。
神に祈る理由は、それぞれの要素を動かしている神のサポートを受けるために必要だからです。
そして、あらゆる問題から自分を守って貰う為に祈ります。
カリユガのこの時代はその時代の特徴故に、どんなにポジティブなことをやっても必ずネガティブが足を引っ張ります。
良いことをしても必ず悪いことがやってきます。人生6割良いことが起こり、4割悪いことが起きるのならそれがもっとも良いバランスだと考えるのが得策です。それがこの時代の特性なんです。それくらいがベストです。それ以上もそれ以下も良くありません。
もし、あなたが神や5大要素の事を学ばず、ただ自分の力だけで闇雲に人生を良くしようとすると必ずネガティブがあなたを引っ張ります。そして、6:4よりももっと低い割合での幸福しかあなたは手にすることが出来ないでしょう。もし10割の幸福を手にしたのなら後ですべてが0になります。それがこの時代の特性です。
この時代は何年も山に籠もり、自分の努力だけで身を清めて、力を付けても一歩外にでればカルマの渦のまっただ中に足を踏みいれることになります。その瞬間、大量のカルマが流れ込んできてあなたはすぐに元に戻ってしまいます。そのカルマの渦から身を守って貰う為には神の加護がとても重要になります。
だから祈ります。
でも、勘違いしてはいけないのは、何の努力もせずにただ祈れば良いと思ってはいけません。
あなたは自分を成長させ、人を助ける為の最大限の努力をしなければなりません。その時だけ神の祈りはあなたを守ってくれます。
やることを何もせず、ただ、寝て暮らしてい中で楽してなんでも望みを叶えて貰う為に祈ってもそれでは何も起こりません。
人生の目的は2つです。その人生で神を本当に発見することと、多くの人を助けることです。その二つの目的を達成する上で障害となることがあるのなら真摯に神に祈るのなら神は必ずあなたを助けてくれます。それは間違いありません。
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そして、この3つの動きから5つの要素(空間、風、火、水、土)が生み出されてます。
神はこの5つの要素を使いすべてのものを創造しました。
シヴァ神は5大要素を使い、宇宙を作り出します。
あらゆる神々達が行う奇蹟はすべて5大要素を動かすことで生み出されます。
5大要素の影響から離れて生きることはできません。この地上に生受けたものは誰もが5大要素の管理下に置かれます。
いかに偉大な聖者であれ、5大要素を無視して生きることはできません。
そして、この5大要素はすべて神の手の中にあります。
もし、5大要素のバランスが崩れると人は不幸になります。
精神的におかしくなたったり、物質的に困窮したりします。
すべては自然界の5大要素とその人自身とのバランスが崩れていることから生じます。
そのバランスを復活させることであらゆる問題は解決されます。
そして、バランスを復活させるには古代から特定の神への祈りがもっとも大切だとされています。
神に祈る理由は、それぞれの要素を動かしている神のサポートを受けるために必要だからです。
そして、あらゆる問題から自分を守って貰う為に祈ります。
カリユガのこの時代はその時代の特徴故に、どんなにポジティブなことをやっても必ずネガティブが足を引っ張ります。
良いことをしても必ず悪いことがやってきます。人生6割良いことが起こり、4割悪いことが起きるのならそれがもっとも良いバランスだと考えるのが得策です。それがこの時代の特性なんです。それくらいがベストです。それ以上もそれ以下も良くありません。
もし、あなたが神や5大要素の事を学ばず、ただ自分の力だけで闇雲に人生を良くしようとすると必ずネガティブがあなたを引っ張ります。そして、6:4よりももっと低い割合での幸福しかあなたは手にすることが出来ないでしょう。もし10割の幸福を手にしたのなら後ですべてが0になります。それがこの時代の特性です。
この時代は何年も山に籠もり、自分の努力だけで身を清めて、力を付けても一歩外にでればカルマの渦のまっただ中に足を踏みいれることになります。その瞬間、大量のカルマが流れ込んできてあなたはすぐに元に戻ってしまいます。そのカルマの渦から身を守って貰う為には神の加護がとても重要になります。
だから祈ります。
でも、勘違いしてはいけないのは、何の努力もせずにただ祈れば良いと思ってはいけません。
あなたは自分を成長させ、人を助ける為の最大限の努力をしなければなりません。その時だけ神の祈りはあなたを守ってくれます。
やることを何もせず、ただ、寝て暮らしてい中で楽してなんでも望みを叶えて貰う為に祈ってもそれでは何も起こりません。
人生の目的は2つです。その人生で神を本当に発見することと、多くの人を助けることです。その二つの目的を達成する上で障害となることがあるのなら真摯に神に祈るのなら神は必ずあなたを助けてくれます。それは間違いありません。
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霊的な道において、グルは必要です。自分一人で道を進めると信じたければそれでも構いませんが、それ自体が未熟な証です。魂に啓発をもたらすには照らされた魂だけが可能です。
自らの中にマハアートマ、偉大な魂を発見したものだけがグルとしての使命を果たします。彼らは大勢の何千、何万もの魂達に道を示す役割を持ってこの地上に現れます。
グルとは闇を照らす光という意味です。無明と闇の中を行きる私たちにとって何が真実でどちらに進めが良いかを示してくれるのがグルの役割です。
自らの中にマハアートマ、偉大な魂を発見したものだけがグルとしての使命を果たします。彼らは大勢の何千、何万もの魂達に道を示す役割を持ってこの地上に現れます。
グルとは闇を照らす光という意味です。無明と闇の中を行きる私たちにとって何が真実でどちらに進めが良いかを示してくれるのがグルの役割です。
ある人はグルとはまったく無関係に何十年も瞑想するかもしれません。ですが、後で自分の意に反してグルの必要性を感じるようになります。それは彼の精神が成長した証です。霊的な道で幾つかの障害を発見したときにこの障害をいかに取り除けば良いかを自分一人で知ることはまず不可能です。山に登った事がある者だけが山を知ります。霊的な道でもそれは同じです。悟りに至った者だけが悟りに至る道を示せます。
あなたが成長すればするほど霊的な道は険しくなります。教典を読めるようになってもそこには曖昧な表現が多いです。結局どうそれを理解すれば良いのか?何をどうすれば良いのか?あなた一人でそれを見いだすことはまず不可能です。故にあなたが自らの未熟さを知るに至ったときに初めてあなたは本当に自分のマスターを捜すようになります。それは少し賢くなった証です。
グルは一介の霊的な教師とは違います。彼らはその存在自体が特別です。なので私は指導者だ、私があなたの師だと言う人たちの多くはグルではない可能性が大です。
あなたが求めるときにグルは現れます。
誰かがこう言いました。
もし間違ったグルを崇拝してしまったらどうするんですか?っと。
心配はいりません。
グルと弟子との関係は心と心の結びつきです。まずあなたが本当にグルを必要だと思わなければ、何をおいてでもこのグルに付き従おうという思いは湧いてきません。崇拝は理屈ではありません。この人なら自分のすべてを預けても構わない、この人をグルとしてすべてに従おうと思う時、それが神を求める時です。
グルとは神を示す存在です。別にその人物に惹かれるのでなくて、その後ろにいる神にあなたの魂が強く惹かれる時、その人をあなたはグルと認めます。
グルを崇拝するというのは神を崇拝するのと同じ事です。人は人を通してしか学べません。故に神がそのグルをあなたに使わす時が来ます。その人を通じてあなたは神を学びます。その時が来たらあなたは分かります。
信仰を恐れる者、盲信と信じるということの違いが分からない者にはまだ本当のグルが誰であるかは分かりません。
この世においてグル無しに悟りを開いた人など一人もいません。仮にそういう人がいてもそれをグルを必要としないという意見の材料にすべきではありません。彼らは特別です。前世ですでにグルに従い、導かれた結果今生では初めから十分一人で歩ける力を身につけた人だというだけです。
偽りの霊的な教師だけがこう言います。
「あなたの考えに従いなさい、あなた自身の為に考えなさい、いかなるグルにも屈服してはいけない!グルは必要ないのだ、あなた自身の中にグルはいるのだから・・・・」
「どんなグルにも従うな!」という時、その人物がグルであろうとしています。他のグルを信じてはいけない、私がお前のグルなのだ!そう素直に言う方がよっぽど誠実でしょうに。
自分の中の神こそ唯一、あなたが一番偉大だと!唱えながら自分に従わせようとする偽りの
教師がどれだけ多いことか・・・・。
これは偽物のグルです。こんな教えに耳を傾けてはいけません。
どんな偉大な存在にも指導者はいました。グルパランパラ(聖者の知識は師から弟子へと伝わる知識)の輪の外に霊的な頂に到達した者はいません。ガイド無しに険しい山を登ることはできません。
だからグルを求めなければなりません。それは自然にそうなります。それは理屈ではありません。心からグルの必要性を感じたときに神はあなたにグルをもたらします。そしてその時はあなたは何も考えずにすべてを委ねる事ができます。もし、それに抵抗を感じるのであればまだその時ではないのかもしれません。まだ精神的にあなたが未熟か、まだ本当の行き詰まりに至ってないかです。
まだ一人でも山を登れると過信しているのかもしれません。その場合、真実の道はどこにも
見つかりません。神もみすみすあなたを危険な目に遭わせることはしません。ガイド無しで
真実の道に踏み入れさせは神もしません。だからあなたはずっと真実の入り口の前で右往左往するだけです。まずグルを探さないとその道に入ることはできません。
あるいはあなたに間違った盲信や依存したいという気持ちがあると、神はわざと間違ったグルをつかわす時もあります。それもまた学びです。
私自身もかつて、かつて学んでいた師に自分を信頼してすべてを委ねて欲しいと言われたことがありますが、その時はその気になれませんでした。理由はその人が私にとっては本当のグルでは無かったからです。今、 私は本当のグルを知り、そして学んでいますが、今はなんでも委ねる事ができます。不思議なことにそこに抵抗が湧いてきません。
すべてはタイミングです。そして、本当に求めた時に救いはやってきます。だから理屈で考える必要はありません。あなたが本当に道を求めれば必ずグルは現れるでしょう。その時が次のステージの始まりです。
その時が来るまで真摯に誠実にやれることをすべてやり、学びなさい。準備が出来たときに扉は開かれます。
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あなたが成長すればするほど霊的な道は険しくなります。教典を読めるようになってもそこには曖昧な表現が多いです。結局どうそれを理解すれば良いのか?何をどうすれば良いのか?あなた一人でそれを見いだすことはまず不可能です。故にあなたが自らの未熟さを知るに至ったときに初めてあなたは本当に自分のマスターを捜すようになります。それは少し賢くなった証です。
グルは一介の霊的な教師とは違います。彼らはその存在自体が特別です。なので私は指導者だ、私があなたの師だと言う人たちの多くはグルではない可能性が大です。
あなたが求めるときにグルは現れます。
誰かがこう言いました。
もし間違ったグルを崇拝してしまったらどうするんですか?っと。
心配はいりません。
グルと弟子との関係は心と心の結びつきです。まずあなたが本当にグルを必要だと思わなければ、何をおいてでもこのグルに付き従おうという思いは湧いてきません。崇拝は理屈ではありません。この人なら自分のすべてを預けても構わない、この人をグルとしてすべてに従おうと思う時、それが神を求める時です。
グルとは神を示す存在です。別にその人物に惹かれるのでなくて、その後ろにいる神にあなたの魂が強く惹かれる時、その人をあなたはグルと認めます。
グルを崇拝するというのは神を崇拝するのと同じ事です。人は人を通してしか学べません。故に神がそのグルをあなたに使わす時が来ます。その人を通じてあなたは神を学びます。その時が来たらあなたは分かります。
信仰を恐れる者、盲信と信じるということの違いが分からない者にはまだ本当のグルが誰であるかは分かりません。
この世においてグル無しに悟りを開いた人など一人もいません。仮にそういう人がいてもそれをグルを必要としないという意見の材料にすべきではありません。彼らは特別です。前世ですでにグルに従い、導かれた結果今生では初めから十分一人で歩ける力を身につけた人だというだけです。
偽りの霊的な教師だけがこう言います。
「あなたの考えに従いなさい、あなた自身の為に考えなさい、いかなるグルにも屈服してはいけない!グルは必要ないのだ、あなた自身の中にグルはいるのだから・・・・」
「どんなグルにも従うな!」という時、その人物がグルであろうとしています。他のグルを信じてはいけない、私がお前のグルなのだ!そう素直に言う方がよっぽど誠実でしょうに。
自分の中の神こそ唯一、あなたが一番偉大だと!唱えながら自分に従わせようとする偽りの
教師がどれだけ多いことか・・・・。
これは偽物のグルです。こんな教えに耳を傾けてはいけません。
どんな偉大な存在にも指導者はいました。グルパランパラ(聖者の知識は師から弟子へと伝わる知識)の輪の外に霊的な頂に到達した者はいません。ガイド無しに険しい山を登ることはできません。
だからグルを求めなければなりません。それは自然にそうなります。それは理屈ではありません。心からグルの必要性を感じたときに神はあなたにグルをもたらします。そしてその時はあなたは何も考えずにすべてを委ねる事ができます。もし、それに抵抗を感じるのであればまだその時ではないのかもしれません。まだ精神的にあなたが未熟か、まだ本当の行き詰まりに至ってないかです。
まだ一人でも山を登れると過信しているのかもしれません。その場合、真実の道はどこにも
見つかりません。神もみすみすあなたを危険な目に遭わせることはしません。ガイド無しで
真実の道に踏み入れさせは神もしません。だからあなたはずっと真実の入り口の前で右往左往するだけです。まずグルを探さないとその道に入ることはできません。
あるいはあなたに間違った盲信や依存したいという気持ちがあると、神はわざと間違ったグルをつかわす時もあります。それもまた学びです。
私自身もかつて、かつて学んでいた師に自分を信頼してすべてを委ねて欲しいと言われたことがありますが、その時はその気になれませんでした。理由はその人が私にとっては本当のグルでは無かったからです。今、 私は本当のグルを知り、そして学んでいますが、今はなんでも委ねる事ができます。不思議なことにそこに抵抗が湧いてきません。
すべてはタイミングです。そして、本当に求めた時に救いはやってきます。だから理屈で考える必要はありません。あなたが本当に道を求めれば必ずグルは現れるでしょう。その時が次のステージの始まりです。
その時が来るまで真摯に誠実にやれることをすべてやり、学びなさい。準備が出来たときに扉は開かれます。
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苦行と聞くと現代人は嫌がります。それがどんなものでも嫌がります(笑)。
インドに行くとそれが異なってきます。インド人は苦行好きです。それは古くから苦行を推奨しているバラモン教やジャイナ教が未だにインドには残っているのに、苦行を否定した仏教がインドにはまったく残ってないことからも分かります。
インドに行くとそれが異なってきます。インド人は苦行好きです。それは古くから苦行を推奨しているバラモン教やジャイナ教が未だにインドには残っているのに、苦行を否定した仏教がインドにはまったく残ってないことからも分かります。
インドの人達の多くは苦行をすることは良しと考えています。それにはジャイナ教の考え方が深く浸透しているからだろうと思います。
ジャイナ教は2500年ぐらい前にマハビールという聖者が開祖として生まれた宗教です。でも、実際にはマハビールがすべてを考えたのではなくて、それ以前にインドには沢山の聖者が何人も登場しています。それらの教えをマハビールはすべて吸収し、再統合してジャイナ教として教えだしたのだろうと歴史家達は言っています。
マハビールの前にはマハビールを含めて24人のティルタンカーラ(アリハン=覚醒者)が存在し、それぞれが信仰の対象になっています。
ジャイナ教の教えはとてもシンプルです。仏教とは違って、霊魂の存在を認め(仏陀の最初に説いた教えでは霊魂は否定されています。意外でしょ!仏陀の教えはこの世はすべて関わりの中で生まれる縁起であり、そこになんら実体はないと説きます。ですから何かが生まれ変わり続けるなどという実体は存在しないと考えます。今の仏教はヒンズー教の影響を受けた教えです。)、人は生まれ変わる中でカルマを作り出す。しかもそのカルマは霊魂のまわりに付着する霊的な物質なので、それを祓い落とさない限りは悟りや解脱は得られないとしています。
ではそのカルマはどうやって消すことができるかというと徹底的な苦行によって消えるというのがジャイナ教の教えです。
なんで苦行によってカルマが消えるのか?そこが面白いのですが、苦行のことをタパスと言います。タパスは熱という意味もあります。神はタパスによって偉大な力を発揮するとも考えられています。タパスは恐らくシャクティと同じ意味です。
そして、苦行はこのタパス(熱)を自らの中に発生させるのでカルマが燃えると信じられています。苦しい事をあえて行うことで、つまりそれだけ頑張ろうという情熱がカルマを焼き切るというなんとも分かりやすいスポ根精神です。
それに比べると仏教はカルマを原因と結果の因果律の中に求めて、それを知的に発見し、それを知的に解決していくとなんとも文系的なやり方です。元々情熱的なインド人にはこの文系的なやり方よりも分かりやすかったんだと思います。また中庸よりも極端に走り安いインド人にはジャイナの教えの方が向いていたんだと思います。その為、ジャイナ教だけがインドで生き残りました。
苦行をすると何故カルマが消えるのか?他にも理由があります。それは苦行は誰のためにするかということです。
ジャイナの開祖マハビールの像を見ると微笑みを讃えています。マハビールは仏陀と同じく、インドの王族の子として生まれたと言われています。仏陀(ガウダマ)は弱小国の王子として生まれたのに比べてマハビールの生まれた国はもっと大きく、裕福だったと言われています。でも、全てを棄てて彼もまた出家します。仏陀のストーリとマハビールのストーリは凄く酷似しています。
マハビールは衣服も脱ぎ捨てて、すべての所有を放棄し、そして覚者になります。ジャイナのジナは勝利者という意味でマハビールの事を指します。悟りを開いた勝利者を信仰する教えという意味でジャイナ教と言います。
マハビールはものすごい苦行をしたのに彼の像は笑っています。多くのジャイナのお坊さんは今も、厳しい苦行をしていますが、皆微笑みを浮かべています。何年も断食をしているお坊さん、生涯しゃべらないと決めているお坊さん、色々な誓約(ディクシャ)を神に近い、それを守って行をしています。
彼らに聞くと分かるのですが、それ苦しくないかと聞くと、「自分の為にやっているわけではないから平気だよ!」と言います。
苦行は自分の為ではないと言います。じゃあ、誰の為なのでしょうか?彼らは神の為にそれをやっているんです。肉を食べないのは神が食べるなと言っているから神の為に肉を食べません。自分の一生のうち、何かを神に捧げて、自分はそれをやらないことでその苦行は神に捧げることになります。その時点でもう無私なんです。だから続けられるんでしょうが。
身体を痛めつけることは別に自分を罰している事ではありません。人からは理解できなくても彼はそれを神の為に神に捧げる儀式としてそれを行います。そうするとそこに神に対する強烈な愛が生まれます。タパス(熱)が生まれます。それが神に届き、神から偉大な恩恵(シャクティ)が与えられるからこそ彼らの人生はいつも平安に満ちたものになります。
苦行を嫌こと、無理なことと思ってやっている人とは根本が違います。自分が在りすぎる人にはどんな行も出来ません。行はそこに無私の心、自分ではなくて神のために行うんだという思いがあるから行えます。すべての人を平等に愛そうとしたマザーテレサの行はカルマ(行動)ヨーガの行でした。
様々な人達が自分と神との関係性の中で行を行います。そうすることでその行は成立し、神が祝福を与えてくれます。
私は肉は食べません。ヒーラーとして仕事をする上で肉食はマイナスにはなってもプラスになることは一切在りません。どんなに言い訳をしても多くの聖者や霊的な指導者は皆口を揃えて肉食は他の存在のカルマを取り入れることになるので良くないと言っています。特に人を癒すヒーラーはそうでなくても相手のカルマの影響を受けますから、肉食を続けている常に意識が低いレベルに置かれて簡単に相手の低い意識レベルと同調してしまいカルマが簡単に流れ込んで来ます。どんな結界を張ろうが何かに守って貰おうが肉食を辞めた方がずっとその効果は早いです。
お酒も飲みません。
後は嘘をつかないこと、
盗みをしないこと、
守っているのはこのぐらいですが、これだけでも無理だ、出来ないと言う人は多くいます。
無論それを人に私は強要しませんが、もし本当に神との縁をより強めたければ先人の知恵に従うのなら多少の誓約は必要になってきます。
その時それを苦行だから嫌なことだと思ってやればまったく意味を持ちません。
なんのためにそれをするのか?
それを守ることで神のためになっている、あるいは神を喜ばせているんだと思えるから素晴らしいんです。
苦行は意味が無いと切り捨てた仏陀と、苦行もまた楽しいものと受け入れたマハビールとどちらもそれぞれ一長一短ですが、ジャイナ教のお坊さん達に触れたときに彼らの高貴さは今まであったどの人達も素晴らしかったのを覚えています。
余談ですが、インドでもし、盗みにあったりして、一文無しになったらジャイナのお寺を探すと良いと聞いたことがあります。
何故ならジャイナの信者達は誰が来ても施しをしてくれます。
元々生き物を殺す仕事には就けないので必然的に商人やお金、貴金属を扱う人達がジャイナの人達は多く、嘘をつかない、約束を守るという性質からより周りの信頼を得て裕福な人々が寄進して作ったジャイナお寺はどれも見事ですし、また訪れると誰もが心から歓迎してくれます。キラキラと目を輝かして周りに集まってくる子供や大人達の姿を今でも思い出します。
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ジャイナ教は2500年ぐらい前にマハビールという聖者が開祖として生まれた宗教です。でも、実際にはマハビールがすべてを考えたのではなくて、それ以前にインドには沢山の聖者が何人も登場しています。それらの教えをマハビールはすべて吸収し、再統合してジャイナ教として教えだしたのだろうと歴史家達は言っています。
マハビールの前にはマハビールを含めて24人のティルタンカーラ(アリハン=覚醒者)が存在し、それぞれが信仰の対象になっています。
ジャイナ教の教えはとてもシンプルです。仏教とは違って、霊魂の存在を認め(仏陀の最初に説いた教えでは霊魂は否定されています。意外でしょ!仏陀の教えはこの世はすべて関わりの中で生まれる縁起であり、そこになんら実体はないと説きます。ですから何かが生まれ変わり続けるなどという実体は存在しないと考えます。今の仏教はヒンズー教の影響を受けた教えです。)、人は生まれ変わる中でカルマを作り出す。しかもそのカルマは霊魂のまわりに付着する霊的な物質なので、それを祓い落とさない限りは悟りや解脱は得られないとしています。
ではそのカルマはどうやって消すことができるかというと徹底的な苦行によって消えるというのがジャイナ教の教えです。
なんで苦行によってカルマが消えるのか?そこが面白いのですが、苦行のことをタパスと言います。タパスは熱という意味もあります。神はタパスによって偉大な力を発揮するとも考えられています。タパスは恐らくシャクティと同じ意味です。
そして、苦行はこのタパス(熱)を自らの中に発生させるのでカルマが燃えると信じられています。苦しい事をあえて行うことで、つまりそれだけ頑張ろうという情熱がカルマを焼き切るというなんとも分かりやすいスポ根精神です。
それに比べると仏教はカルマを原因と結果の因果律の中に求めて、それを知的に発見し、それを知的に解決していくとなんとも文系的なやり方です。元々情熱的なインド人にはこの文系的なやり方よりも分かりやすかったんだと思います。また中庸よりも極端に走り安いインド人にはジャイナの教えの方が向いていたんだと思います。その為、ジャイナ教だけがインドで生き残りました。
苦行をすると何故カルマが消えるのか?他にも理由があります。それは苦行は誰のためにするかということです。
ジャイナの開祖マハビールの像を見ると微笑みを讃えています。マハビールは仏陀と同じく、インドの王族の子として生まれたと言われています。仏陀(ガウダマ)は弱小国の王子として生まれたのに比べてマハビールの生まれた国はもっと大きく、裕福だったと言われています。でも、全てを棄てて彼もまた出家します。仏陀のストーリとマハビールのストーリは凄く酷似しています。
マハビールは衣服も脱ぎ捨てて、すべての所有を放棄し、そして覚者になります。ジャイナのジナは勝利者という意味でマハビールの事を指します。悟りを開いた勝利者を信仰する教えという意味でジャイナ教と言います。
マハビールはものすごい苦行をしたのに彼の像は笑っています。多くのジャイナのお坊さんは今も、厳しい苦行をしていますが、皆微笑みを浮かべています。何年も断食をしているお坊さん、生涯しゃべらないと決めているお坊さん、色々な誓約(ディクシャ)を神に近い、それを守って行をしています。
彼らに聞くと分かるのですが、それ苦しくないかと聞くと、「自分の為にやっているわけではないから平気だよ!」と言います。
苦行は自分の為ではないと言います。じゃあ、誰の為なのでしょうか?彼らは神の為にそれをやっているんです。肉を食べないのは神が食べるなと言っているから神の為に肉を食べません。自分の一生のうち、何かを神に捧げて、自分はそれをやらないことでその苦行は神に捧げることになります。その時点でもう無私なんです。だから続けられるんでしょうが。
身体を痛めつけることは別に自分を罰している事ではありません。人からは理解できなくても彼はそれを神の為に神に捧げる儀式としてそれを行います。そうするとそこに神に対する強烈な愛が生まれます。タパス(熱)が生まれます。それが神に届き、神から偉大な恩恵(シャクティ)が与えられるからこそ彼らの人生はいつも平安に満ちたものになります。
苦行を嫌こと、無理なことと思ってやっている人とは根本が違います。自分が在りすぎる人にはどんな行も出来ません。行はそこに無私の心、自分ではなくて神のために行うんだという思いがあるから行えます。すべての人を平等に愛そうとしたマザーテレサの行はカルマ(行動)ヨーガの行でした。
様々な人達が自分と神との関係性の中で行を行います。そうすることでその行は成立し、神が祝福を与えてくれます。
私は肉は食べません。ヒーラーとして仕事をする上で肉食はマイナスにはなってもプラスになることは一切在りません。どんなに言い訳をしても多くの聖者や霊的な指導者は皆口を揃えて肉食は他の存在のカルマを取り入れることになるので良くないと言っています。特に人を癒すヒーラーはそうでなくても相手のカルマの影響を受けますから、肉食を続けている常に意識が低いレベルに置かれて簡単に相手の低い意識レベルと同調してしまいカルマが簡単に流れ込んで来ます。どんな結界を張ろうが何かに守って貰おうが肉食を辞めた方がずっとその効果は早いです。
お酒も飲みません。
後は嘘をつかないこと、
盗みをしないこと、
守っているのはこのぐらいですが、これだけでも無理だ、出来ないと言う人は多くいます。
無論それを人に私は強要しませんが、もし本当に神との縁をより強めたければ先人の知恵に従うのなら多少の誓約は必要になってきます。
その時それを苦行だから嫌なことだと思ってやればまったく意味を持ちません。
なんのためにそれをするのか?
それを守ることで神のためになっている、あるいは神を喜ばせているんだと思えるから素晴らしいんです。
苦行は意味が無いと切り捨てた仏陀と、苦行もまた楽しいものと受け入れたマハビールとどちらもそれぞれ一長一短ですが、ジャイナ教のお坊さん達に触れたときに彼らの高貴さは今まであったどの人達も素晴らしかったのを覚えています。
余談ですが、インドでもし、盗みにあったりして、一文無しになったらジャイナのお寺を探すと良いと聞いたことがあります。
何故ならジャイナの信者達は誰が来ても施しをしてくれます。
元々生き物を殺す仕事には就けないので必然的に商人やお金、貴金属を扱う人達がジャイナの人達は多く、嘘をつかない、約束を守るという性質からより周りの信頼を得て裕福な人々が寄進して作ったジャイナお寺はどれも見事ですし、また訪れると誰もが心から歓迎してくれます。キラキラと目を輝かして周りに集まってくる子供や大人達の姿を今でも思い出します。
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自分の怒り等、ネガティブな感情に振り回されるとすべてのチャンスを失います。何故なら感情はすべてマヤ(幻想)です。そして、何故そういう感情が生まれるかというと、それは自分の中に沢山の不発弾が貯まっているからです。
不発弾は感情の種です。そして、誰かの言葉や、外からの刺激によって不発弾が爆発するとそれが感情となって自分の中に沸き上がります。ですが、その感情は決して自分の物ではありません。でも、ほとんどの人はその感情を自分の物だと思ってしまいます。
そして困ったことに自分の感情の原因は不発弾にあるのではなくて、その不発弾を刺激した誰かだと思うところです。あいつのせいで腹が立った、あるいはこいつのせいで自分は傷ついた・・・と思ってしまうところです。
でも、本当はそれは間違った考えです。原因の大元は自分の中に不発弾がいっぱいあるということです。別にその人の言葉でなくても、他の誰の言葉でも多分、自分は怒りを感じたり、傷つくでしょう。宇宙は教えてくれています。あなたの中に不発弾があるんですよ。だからそれを刺激してあげた!その怒りが、悲しみが湧いてくるのは誰のせいでもなくあなたの中に貯まっているものがあるんですよ!っと。
じゃあ、誰がその不発弾を作ったのでしょうか?自分でしょうか?いいえ、その不発弾もまた誰がが作ったものです。親からの遺伝、あるいは先祖から持ち越した感情の種がこの肉体には詰まっています。そして知らず知らずに自分に嘘をついてストレスを自ら作り出すパターンを持っています。あるいは過去生から来たものもあるでしょう。でも、それがどこかから来たかは問題ではありません。すべてがあなたには責任のないものです。ただ、そういう不発弾を作り出す癖があるだけです。だからその癖を修正しなければなりません。
それは日々自分を良く見つめて、そして瞑想やヒーリングを通じて自己の浄化に励むべきです。もし、正しく自己浄化を行っている人なら、感情がどんなに沸き上がってもそれを誰かのせいにしたり、傷ついたとは思いません。ただ、ああ、まだ自分の中にゴミが詰まっていたと気づくだけのことです。もっと綺麗にしなくてはと更に浄化に励むきっかけにするだけです。
大切なのはどんな感情もただ、自分の中にあったものが今表面化して消えようとしているプロセスだと受け入れることです。そして感情が過ぎ去るのをただ見るだけです。嵐はいつか過ぎ去ります。多少は引きずられることがあっても、嵐が自分のせいでも、誰かのせいでもないと分かっていればあなたは傷つきません。
感情、特に怒りはすべてを駄目します。
今まで沢山の生徒を見てきましたが、一時の感情ですべてをフイにした人も沢山いました。長く瞑想していても一時の感情で、すべてを棄ててしまった人もいます。教師が言った一言で傷つき、怒りを感じ、もう瞑想なんかしないと言って去っていってしまう人もいます。でも、それはとてももったいないことです。
別にちゃんと冷静に考えて、もう自分はこの教えや、方法は必要ない、卒業しても良いなと思い去るのなら構いません。でも、一時の感情ですべてを棄てるのは子供です。
仏陀はこう言いました。怒りで何かを破壊するのならそれは子供でもできると・・・・。怒りは破壊的だと、そしてすべてを壊すと・・・。
怒りはこう言い換えることもできます。それは「全部いらない!」という宇宙への宣言です。怒りに駆られたとき、自分はこの人のせいで傷ついたと思ったとき、あなたは宇宙に「私はもう全部いらない!」と宣言しているんです。そうすると神は去っていきます。
感情はどんなものであれ、自分の中を吹き抜ける風です。それを掴まえてはいけません。そして感情から何かの行動を取るのならちょっと立ち止まって考えてください。本当にその感情に乗って行動するのが適切なのかどうか?自分はいつのまにか誰かの犠牲者だと思っていないか?
自分が誰かの犠牲者だと思っている限り、神はその人から去っていきます。そして、犠牲者を演じる限り、もっと悪いことが起こります。一時の感情が更に負のスパイラスを描きます。そんなのはナンセンスです。誰が何を言おうと、何をされようと傷ついたとは思わないことです。あなたの中の不発弾が爆発したのならそれを喜ぶべきです。ありがとう、その言葉で私は怒りを感じた、こんな事でまだ私は怒りを持つぐらいまだ不発弾があったんだな、ありがとう良く気づかせてくれた!サンキューと思うのが正しいです。そして、それなら神はあなたを祝福します。
何度も言いますが、あなたが人を見ている限り、あなたは傷つきます。そして感情に振り回されます。ですが、人を越えて神を見ているのならあなたの感情はただの風だと感じるでしょう。神は感情とはまったく関係ないところに生きています。そして、あなたもそこで生きるようになればもう感情の世界とは無縁になります。
感情の犠牲にもうならないと心から決めるべきです。
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そして困ったことに自分の感情の原因は不発弾にあるのではなくて、その不発弾を刺激した誰かだと思うところです。あいつのせいで腹が立った、あるいはこいつのせいで自分は傷ついた・・・と思ってしまうところです。
でも、本当はそれは間違った考えです。原因の大元は自分の中に不発弾がいっぱいあるということです。別にその人の言葉でなくても、他の誰の言葉でも多分、自分は怒りを感じたり、傷つくでしょう。宇宙は教えてくれています。あなたの中に不発弾があるんですよ。だからそれを刺激してあげた!その怒りが、悲しみが湧いてくるのは誰のせいでもなくあなたの中に貯まっているものがあるんですよ!っと。
じゃあ、誰がその不発弾を作ったのでしょうか?自分でしょうか?いいえ、その不発弾もまた誰がが作ったものです。親からの遺伝、あるいは先祖から持ち越した感情の種がこの肉体には詰まっています。そして知らず知らずに自分に嘘をついてストレスを自ら作り出すパターンを持っています。あるいは過去生から来たものもあるでしょう。でも、それがどこかから来たかは問題ではありません。すべてがあなたには責任のないものです。ただ、そういう不発弾を作り出す癖があるだけです。だからその癖を修正しなければなりません。
それは日々自分を良く見つめて、そして瞑想やヒーリングを通じて自己の浄化に励むべきです。もし、正しく自己浄化を行っている人なら、感情がどんなに沸き上がってもそれを誰かのせいにしたり、傷ついたとは思いません。ただ、ああ、まだ自分の中にゴミが詰まっていたと気づくだけのことです。もっと綺麗にしなくてはと更に浄化に励むきっかけにするだけです。
大切なのはどんな感情もただ、自分の中にあったものが今表面化して消えようとしているプロセスだと受け入れることです。そして感情が過ぎ去るのをただ見るだけです。嵐はいつか過ぎ去ります。多少は引きずられることがあっても、嵐が自分のせいでも、誰かのせいでもないと分かっていればあなたは傷つきません。
感情、特に怒りはすべてを駄目します。
今まで沢山の生徒を見てきましたが、一時の感情ですべてをフイにした人も沢山いました。長く瞑想していても一時の感情で、すべてを棄ててしまった人もいます。教師が言った一言で傷つき、怒りを感じ、もう瞑想なんかしないと言って去っていってしまう人もいます。でも、それはとてももったいないことです。
別にちゃんと冷静に考えて、もう自分はこの教えや、方法は必要ない、卒業しても良いなと思い去るのなら構いません。でも、一時の感情ですべてを棄てるのは子供です。
仏陀はこう言いました。怒りで何かを破壊するのならそれは子供でもできると・・・・。怒りは破壊的だと、そしてすべてを壊すと・・・。
怒りはこう言い換えることもできます。それは「全部いらない!」という宇宙への宣言です。怒りに駆られたとき、自分はこの人のせいで傷ついたと思ったとき、あなたは宇宙に「私はもう全部いらない!」と宣言しているんです。そうすると神は去っていきます。
感情はどんなものであれ、自分の中を吹き抜ける風です。それを掴まえてはいけません。そして感情から何かの行動を取るのならちょっと立ち止まって考えてください。本当にその感情に乗って行動するのが適切なのかどうか?自分はいつのまにか誰かの犠牲者だと思っていないか?
自分が誰かの犠牲者だと思っている限り、神はその人から去っていきます。そして、犠牲者を演じる限り、もっと悪いことが起こります。一時の感情が更に負のスパイラスを描きます。そんなのはナンセンスです。誰が何を言おうと、何をされようと傷ついたとは思わないことです。あなたの中の不発弾が爆発したのならそれを喜ぶべきです。ありがとう、その言葉で私は怒りを感じた、こんな事でまだ私は怒りを持つぐらいまだ不発弾があったんだな、ありがとう良く気づかせてくれた!サンキューと思うのが正しいです。そして、それなら神はあなたを祝福します。
何度も言いますが、あなたが人を見ている限り、あなたは傷つきます。そして感情に振り回されます。ですが、人を越えて神を見ているのならあなたの感情はただの風だと感じるでしょう。神は感情とはまったく関係ないところに生きています。そして、あなたもそこで生きるようになればもう感情の世界とは無縁になります。
感情の犠牲にもうならないと心から決めるべきです。
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「空」に至る瞑想だけでは自らの疑問に対する答えにならないことを悟った仏陀はその後、瞑想を棄てて、苦行に入ります。
当時、バラモン教が主流だった仏陀の時代、苦行は当たり前だったみたいです。現代人から見ると苦行なんてなんでするのか?と思いますが、この時代(というか、インド人は?)皆、真理を探究する者は苦行を好んで行いました。
当時、バラモン教が主流だった仏陀の時代、苦行は当たり前だったみたいです。現代人から見ると苦行なんてなんでするのか?と思いますが、この時代(というか、インド人は?)皆、真理を探究する者は苦行を好んで行いました。
苦行についてはまた後で別の話を書きますが、恐らくこの6〜7年間の苦行生活の中で仏陀は様々な事を試したんだと思います。本当に極端な苦行を行ったと様々な仏典を読むと書かれています。骨と皮だけになった仏陀像を見るとその壮絶な修行を想像できます。
でも、彼には得る者が無くて、その後苦行生活からも足を洗います。そして極端な苦行では悟れないという結論に至ったと言われています。
ここで疑問です、本当に7年間の苦行は無駄だったんでしょうか?
以前、インドに行ったときに、ジャイナ教の聖者にお会いしたことがあります。その時に、ジャイナの信者の方からこんな話しを聞きました。
ジャイナ教は仏陀と同じ時期にマハビールという人が開祖として生まれた宗教だと言われています。その教えは徹底した戒律と苦行の教えです。出家者はとても厳しい行を一生涯実践する中で悟りに至ると説いています。
面白いことですが、現在インドには仏教はありません。逆にジャイナ教は全体から見ると数は少ないですが、現在もインドに存在します、ジャイナの在家信者は逆にインドの経済、政治に深く影響力を持っていると言われています。王族、貴族、裕福な人達のほとんどがジャイナ教徒です。
厳しい苦行を説くジャイナ教が生き残り、苦行を否定した仏教の方がインドから消えてしまったのはとても不思議ですが、インド人には苦行をすればどんな罪もカルマも消え、悟りに至ることが出来るというシンプルな教えの方がずっと受け入れやすかったんだと思います。
仏教の教えはインド人にはもの足りなかったのかもしれません。
話しを戻しますが、そのジャイナ教では仏陀は実はジャイナ教を学び、そこから仏教のヒントを得た、あるいはマハビールの弟子だったと信じている人が沢山います。開祖としてティルタンカーラの地位をマハビールと争って負けたから仏陀は仏教を説いたんだと言っている人もいます。
自分の宗教を一番に思いたいのは常なることですし、真偽は誰にも分かりませんが、同時代に生まれたジャイナ教と仏教にはとても似た部分もあります。
ただ、苦行に関しては完全に考え方が異なります。ジャイナは苦行をすべて肯定しますが、仏教では苦行は良くないものと言っています。
でも、だからと言ってすべての苦行を否定してはいません。極端な苦行が良くないのであって、穏やかな苦行はむしろ仏陀も推奨しています。
非所有や、人を助ける事なども穏やかな苦行の一つです。そうしたことはむしろ良いことだと仏陀も晩年言っていますから、すべての苦行が否定された訳ではありません。
ジャイナ教の視点から言えば、苦行はそれ自体が無意味に思えても、必ずカルマは落とせると言っています。そう考えるとこの7年間の仏陀の苦行も以外と知らない部分でかなりのカルマを落としたのかもしれません。そしてそれが後の本当の悟りに至る原動力に繋がったのかも知れないと私は考えています。
いずれにしろ、仏陀は苦行から離れて、この後、誰もが知っているようにもう一度彼は菩提樹の木の下に座ります。そして、再び瞑想に入ります。
このとき、仏陀は何をしたのか?
多くの人が悟りとは何か突然の天啓でやってくるようなものと信じている人が多いですが、実際はそんなことはほとんど無いと私は信じています。
偉大な発明はどうやって生まれるか?それはある日突然何の前触れもなく脳裏に浮かぶものでしょうか?そんな事はありません。多くの発明家や発見者達はその前にかならず何らかの前触れの直感を常に受け取っています。なんどもなんどもある種の直感が湧き続けてくるんです。
そして、その思いや考えにつき動かれてしまうのが偉大な発明者達の常です。彼らはいつも自己に正直です。だからその直感を無視できません。
仏陀も彼の中にきっと何かしらの直感があったんだと思います。そしてその直感に従い彼は独自のやり方で再び瞑想に入ります。
今まで自分が学んだ様々な瞑想、「空」に至る方法や、呼吸法や様々なものをもう一度再吟味したのちに、静かに自らの奥深くに入り、そして過去から現在に渡るすべての自らの行い、感情、思考等を深く深く吟味していきました。
彼が行った新しい試みの瞑想はそれまでのただ深い静寂、「空」や、偉大な境地に自らを手放し、自己を放棄するのではなく、むしろその逆で徹底して自らを見つめる瞑想でした。それが今日ではヴィッバサナーとして伝わっています。
このやり方は思考を手放すのでなくて、むしろ思考を積極的に使って自らを見ていくやり方です。ヨーガでは知のヨーガ(ジュニャーナ・ヨーガ)に分類されるものです。
ジュニャーナ・ヨーガで知られる今世紀の聖者、ラマナマハリシは自らの中を見つめてどんな思いがやってきても「ナイティー、ナィティー(それではない、それではない!)」と外して行くことの大切さを強調しています。
仏陀もそうやって自らの中を思考を使い掃除していきます。十二縁起という「すべての出来事は原因があって結果が生じるだけであってそこには何の実体も無いだが、人には根本的な無知があり、それがすべての認識の誤りを作り出しているのであって、原因の元となるものを知を持って解決することですべての痛みや苦しみは消え去る」と熟考していく方法をとりました。そしてその結果もっとも深い自己の中に他の誰の言葉や思考でもない真の自己の叡智を発見します。それが仏陀の悟りです。
もう少し説明するとこれは一端「空」や深い静寂を経験したのちにただ漠然と「空」の中に浸っても戻ってくるとそこにはまだ古い考え方のマインドや自我が存在します。マインドや自我にすべては「空」だと理解させるためには一端自らの思考パターンや自我の癖を深く深く探り、解体し、再構築する過程で、世界は「空」との関わりの中で生まれる実相を持たない実体であるという新しい考え方を身に付けさせます。
要するにマインドの再教育です。そうすることでマインドはより賢くなり、真の叡智を獲得します。
禅における師との禅問答、ヴェーダの研究者達が生み出したウパニシャッド哲学の時代に多くの探求者達が林の中に籠もり、師を囲み行った徹底した質疑応答等はすべて師を通して自らのマインドの思考を解体し、再構築する作業です。
一般的に瞑想を習う時に良い師につかなければ為らないというのはこの理由からです。幾ら瞑想で良い体験をしていてもマインドと自我を書き換えるには師からの指導が必要だからです。
仏陀はそれを自ら、一人の瞑想を通して行いました。瞑想だけして気持ち良くなっていてもマインドの書き換えは起こらないので彼は師を必要とせずに自分で自分のマインドを再教育しました。
ジュニャーナ・ヨーガでは「私は誰か?」という命題を徹底的に追求していきます。その結果真の答えを自らの中に見つけ出すことができると言われていますが、仏陀が行った最後の瞑想法はまさしくそれです。
仏陀の悟りははただ「空」に溶け、静寂の中に浸り、自己の考えが停止した状態での悟りではありません。これは禅では「初禅」と呼ばれる段階です。「空」に溶けて、凄く気持ち良くなる体験、色々な物事に執着が薄れて心が晴れやかになる体験はすべて瞑想の最初の段階だとされています。なのでそれはゴールではありません。
「シューニャ」はゼロ何も無いという意味ですが、ただシューニャを体験するだけの瞑想ではその時は心が晴れやかになれても後が続きません。これらの体験はすべて瞑想の初期段階の体験です。思考が停止しているだけで、瞑想から出てくるとまた思考は動き出します。それが駄目なのではなく、それがゴールだと勘違いしないことが重要です。
どんなに良い瞑想でも瞑想から出てきた後も、ずっとその状態が続かなければ意味がありませんし、悟りとはそれは今までの自分とは違う何かが内側にあるいは外側からやってくる体験です。そのやってくるものが私は偉大な叡智だと考えています。
仏陀はその叡智を自らに対する徹底的な自己分析によって体得しました。恐らく通常の人間なら一生をかけて得られる「空」の体験や自己と世界との一体感の体験を得たのちだからこそ、そして、沢山の苦行を通じてその時点で多くのカルマを消し去った後だからこそ、自然と心静かに座り、とてもクリアーな状態で最初から自己分析を出来たからこそ得られた体験だと私は考えています。
なので、仏陀のケースをもし私たちがそのまま行おうと思うとほとんどの人は挫折すると思います。それは完全な自力行です。
自力行はよほど本人に才能とサンカルパ(集中力)とタパス(情熱)が無いと成立しません。仮にサンカルパとタパスがあっても才能と与えられた徳(前世からすでに持ってきている神の恩寵=シャクティ)が少ないと自力での悟りは不可能だと私は考えています。
その為、仏陀のケースはあくまでただ瞑想だけでは悟りは得られないという一例として参考にする程度でそのやり方をそのまま行うことはお奨めしません。
私が実践しているやり方や薦めるのはバクティ(信仰)のヨーガであり、それは積極的な他力行です。
まず心を穏やかにすること、深い静寂と「空」の体験を得ることはとても重要です。その為にフリダヤ瞑想があります。
静寂や「空」を体験できる瞑想は世界に他にも沢山ありますからそれは何でも構いません。自分がやり安い方法を選べば良いです。それぞれに特徴があり、またそれぞれに違った面もあります。
ですが、もうおわかりのようにそれだけで本当の叡智は手に出来ません。叡智、つまり悟りを得るにはその後に二つの方法があるのでどちらの道を選ばなければなりません。
一つは仏陀の様に、自力で自らの中を徹底的に見つめて行くやり方です。ヴィッバサナーの様な方法がその場合はとても有効です。でもこれは本人の才能や努力によって左右されます。生涯を賭しても叡智と悟りを得られる人、得られない人、果たしてその結果は?その人次第です。
良い瞑想の師に出会うことも大切です。微妙な心の動きを察して、導いて貰わないと自力での瞑想作業は途中でたぶん頓挫します。非常にそれは困難な道です。
もう一つの道はバクティ(信仰)を通じて、神仏によりその叡智を与えて貰う方法です。ラーマクリシュナの道は正しくこのバクティヨーガの道でした。彼はマザーカーリ神に恋い焦がれてついにカーリー神との一体を得たのみに偉大な光明を得ます。
ジュニャーナ・ヨーガで知られるラマナマハリシでさえ、彼は生涯アルナーチャラ山という山から離れませんでした、この山はアルナーチャラ神(シヴァ神とパールバティー神の合体神、シヴァシャクティ神)の聖地です。若い頃、ラマナマハリシはシヴァ神との強烈な遭遇体験を得ていると聞いたことがあります。
多くのインドの聖者、グルと呼ばれる人達はなんらかの神との繋がりと信仰を持っています。そしてそれこそが偉大な叡智と光明の源泉です。
私は仏陀という聖者はとにかくスペシャルな存在だといつも生徒に言います。多分彼をマネしない方が良いですよっと。(笑)。もっとも最初から誰も真似できないと思いますが。信仰を持たず(もしかしたら持っていたのかもしれませんが・・・・)して、偉大な叡智を手にした彼の方法は私たち凡人には真似できません。
それならもっと簡単で確実な方法をとることを薦めます。多くの聖者が通った道を行った方が得策でしょう。
信仰とは神に祈りを捧げる事であり、特定の神またはグル(霊的なマスター)との縁を強めていく行為です。そうすることでその縁を通して神からあるいは自分が信じるグル(現存、昇天しているかは関係ありません。)から叡智、つまりシャクティと呼ばれる悟りに不可欠ななんらかの力があなたに与えられます。そしてその力があなたの意識を自力では到底不可能な領域にまで引き上げてくれます。
私はフリダヤ瞑想の次にヴェーダシャクティ冥想と日々神に捧げるマントラ行を実践することで可能になると信じています。ヴェーダシャクティ冥想は偉大なグルであるシルディババとインドのいくつかの神々への祈りの冥想です。そして、マントラ行は古代からヒンズー教の聖者達すべてが推奨している神との繋がりを作る声に出して唱えるマントラの詠唱です。カリユガというこの時代には瞑想よりもむしろこうした神への祈りやマントラの詠唱こそが大切だと多くの聖者が言っています。信仰が何故必要かというのは信仰は積極的な他力行だからです。
私自身が今多くの事を学び続けています。インドに現存する聖者の知識や、すでに昇天しているけれども偉大なマスターの知識を学び続けています。そうした知識も皆さんに紹介する中でいずれは個々人がそれぞの自分の信じる神に出会い、そしてグルに遭遇するようになるでしょう。その時がくれば必ず偉大な叡智は一人一人の中に生まれて、多くの人が悟りに到達すると私は信じています。
自力の道、他力の道、どちらを取るかはその人の自由です。でも、一つだけはっきりしているのは仏陀がそうだったようにただ瞑想しているだけでは悟りは得られません。
次は偉大な聖者、シャンカラと瞑想法について書こうと思います。実はシャンカラが教えた瞑想法というのは史実ではどこにもありません。そして彼が信じた神とは誰か?について書きます。
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でも、彼には得る者が無くて、その後苦行生活からも足を洗います。そして極端な苦行では悟れないという結論に至ったと言われています。
ここで疑問です、本当に7年間の苦行は無駄だったんでしょうか?
以前、インドに行ったときに、ジャイナ教の聖者にお会いしたことがあります。その時に、ジャイナの信者の方からこんな話しを聞きました。
ジャイナ教は仏陀と同じ時期にマハビールという人が開祖として生まれた宗教だと言われています。その教えは徹底した戒律と苦行の教えです。出家者はとても厳しい行を一生涯実践する中で悟りに至ると説いています。
面白いことですが、現在インドには仏教はありません。逆にジャイナ教は全体から見ると数は少ないですが、現在もインドに存在します、ジャイナの在家信者は逆にインドの経済、政治に深く影響力を持っていると言われています。王族、貴族、裕福な人達のほとんどがジャイナ教徒です。
厳しい苦行を説くジャイナ教が生き残り、苦行を否定した仏教の方がインドから消えてしまったのはとても不思議ですが、インド人には苦行をすればどんな罪もカルマも消え、悟りに至ることが出来るというシンプルな教えの方がずっと受け入れやすかったんだと思います。
仏教の教えはインド人にはもの足りなかったのかもしれません。
話しを戻しますが、そのジャイナ教では仏陀は実はジャイナ教を学び、そこから仏教のヒントを得た、あるいはマハビールの弟子だったと信じている人が沢山います。開祖としてティルタンカーラの地位をマハビールと争って負けたから仏陀は仏教を説いたんだと言っている人もいます。
自分の宗教を一番に思いたいのは常なることですし、真偽は誰にも分かりませんが、同時代に生まれたジャイナ教と仏教にはとても似た部分もあります。
ただ、苦行に関しては完全に考え方が異なります。ジャイナは苦行をすべて肯定しますが、仏教では苦行は良くないものと言っています。
でも、だからと言ってすべての苦行を否定してはいません。極端な苦行が良くないのであって、穏やかな苦行はむしろ仏陀も推奨しています。
非所有や、人を助ける事なども穏やかな苦行の一つです。そうしたことはむしろ良いことだと仏陀も晩年言っていますから、すべての苦行が否定された訳ではありません。
ジャイナ教の視点から言えば、苦行はそれ自体が無意味に思えても、必ずカルマは落とせると言っています。そう考えるとこの7年間の仏陀の苦行も以外と知らない部分でかなりのカルマを落としたのかもしれません。そしてそれが後の本当の悟りに至る原動力に繋がったのかも知れないと私は考えています。
いずれにしろ、仏陀は苦行から離れて、この後、誰もが知っているようにもう一度彼は菩提樹の木の下に座ります。そして、再び瞑想に入ります。
このとき、仏陀は何をしたのか?
多くの人が悟りとは何か突然の天啓でやってくるようなものと信じている人が多いですが、実際はそんなことはほとんど無いと私は信じています。
偉大な発明はどうやって生まれるか?それはある日突然何の前触れもなく脳裏に浮かぶものでしょうか?そんな事はありません。多くの発明家や発見者達はその前にかならず何らかの前触れの直感を常に受け取っています。なんどもなんどもある種の直感が湧き続けてくるんです。
そして、その思いや考えにつき動かれてしまうのが偉大な発明者達の常です。彼らはいつも自己に正直です。だからその直感を無視できません。
仏陀も彼の中にきっと何かしらの直感があったんだと思います。そしてその直感に従い彼は独自のやり方で再び瞑想に入ります。
今まで自分が学んだ様々な瞑想、「空」に至る方法や、呼吸法や様々なものをもう一度再吟味したのちに、静かに自らの奥深くに入り、そして過去から現在に渡るすべての自らの行い、感情、思考等を深く深く吟味していきました。
彼が行った新しい試みの瞑想はそれまでのただ深い静寂、「空」や、偉大な境地に自らを手放し、自己を放棄するのではなく、むしろその逆で徹底して自らを見つめる瞑想でした。それが今日ではヴィッバサナーとして伝わっています。
このやり方は思考を手放すのでなくて、むしろ思考を積極的に使って自らを見ていくやり方です。ヨーガでは知のヨーガ(ジュニャーナ・ヨーガ)に分類されるものです。
ジュニャーナ・ヨーガで知られる今世紀の聖者、ラマナマハリシは自らの中を見つめてどんな思いがやってきても「ナイティー、ナィティー(それではない、それではない!)」と外して行くことの大切さを強調しています。
仏陀もそうやって自らの中を思考を使い掃除していきます。十二縁起という「すべての出来事は原因があって結果が生じるだけであってそこには何の実体も無いだが、人には根本的な無知があり、それがすべての認識の誤りを作り出しているのであって、原因の元となるものを知を持って解決することですべての痛みや苦しみは消え去る」と熟考していく方法をとりました。そしてその結果もっとも深い自己の中に他の誰の言葉や思考でもない真の自己の叡智を発見します。それが仏陀の悟りです。
もう少し説明するとこれは一端「空」や深い静寂を経験したのちにただ漠然と「空」の中に浸っても戻ってくるとそこにはまだ古い考え方のマインドや自我が存在します。マインドや自我にすべては「空」だと理解させるためには一端自らの思考パターンや自我の癖を深く深く探り、解体し、再構築する過程で、世界は「空」との関わりの中で生まれる実相を持たない実体であるという新しい考え方を身に付けさせます。
要するにマインドの再教育です。そうすることでマインドはより賢くなり、真の叡智を獲得します。
禅における師との禅問答、ヴェーダの研究者達が生み出したウパニシャッド哲学の時代に多くの探求者達が林の中に籠もり、師を囲み行った徹底した質疑応答等はすべて師を通して自らのマインドの思考を解体し、再構築する作業です。
一般的に瞑想を習う時に良い師につかなければ為らないというのはこの理由からです。幾ら瞑想で良い体験をしていてもマインドと自我を書き換えるには師からの指導が必要だからです。
仏陀はそれを自ら、一人の瞑想を通して行いました。瞑想だけして気持ち良くなっていてもマインドの書き換えは起こらないので彼は師を必要とせずに自分で自分のマインドを再教育しました。
ジュニャーナ・ヨーガでは「私は誰か?」という命題を徹底的に追求していきます。その結果真の答えを自らの中に見つけ出すことができると言われていますが、仏陀が行った最後の瞑想法はまさしくそれです。
仏陀の悟りははただ「空」に溶け、静寂の中に浸り、自己の考えが停止した状態での悟りではありません。これは禅では「初禅」と呼ばれる段階です。「空」に溶けて、凄く気持ち良くなる体験、色々な物事に執着が薄れて心が晴れやかになる体験はすべて瞑想の最初の段階だとされています。なのでそれはゴールではありません。
「シューニャ」はゼロ何も無いという意味ですが、ただシューニャを体験するだけの瞑想ではその時は心が晴れやかになれても後が続きません。これらの体験はすべて瞑想の初期段階の体験です。思考が停止しているだけで、瞑想から出てくるとまた思考は動き出します。それが駄目なのではなく、それがゴールだと勘違いしないことが重要です。
どんなに良い瞑想でも瞑想から出てきた後も、ずっとその状態が続かなければ意味がありませんし、悟りとはそれは今までの自分とは違う何かが内側にあるいは外側からやってくる体験です。そのやってくるものが私は偉大な叡智だと考えています。
仏陀はその叡智を自らに対する徹底的な自己分析によって体得しました。恐らく通常の人間なら一生をかけて得られる「空」の体験や自己と世界との一体感の体験を得たのちだからこそ、そして、沢山の苦行を通じてその時点で多くのカルマを消し去った後だからこそ、自然と心静かに座り、とてもクリアーな状態で最初から自己分析を出来たからこそ得られた体験だと私は考えています。
なので、仏陀のケースをもし私たちがそのまま行おうと思うとほとんどの人は挫折すると思います。それは完全な自力行です。
自力行はよほど本人に才能とサンカルパ(集中力)とタパス(情熱)が無いと成立しません。仮にサンカルパとタパスがあっても才能と与えられた徳(前世からすでに持ってきている神の恩寵=シャクティ)が少ないと自力での悟りは不可能だと私は考えています。
その為、仏陀のケースはあくまでただ瞑想だけでは悟りは得られないという一例として参考にする程度でそのやり方をそのまま行うことはお奨めしません。
私が実践しているやり方や薦めるのはバクティ(信仰)のヨーガであり、それは積極的な他力行です。
まず心を穏やかにすること、深い静寂と「空」の体験を得ることはとても重要です。その為にフリダヤ瞑想があります。
静寂や「空」を体験できる瞑想は世界に他にも沢山ありますからそれは何でも構いません。自分がやり安い方法を選べば良いです。それぞれに特徴があり、またそれぞれに違った面もあります。
ですが、もうおわかりのようにそれだけで本当の叡智は手に出来ません。叡智、つまり悟りを得るにはその後に二つの方法があるのでどちらの道を選ばなければなりません。
一つは仏陀の様に、自力で自らの中を徹底的に見つめて行くやり方です。ヴィッバサナーの様な方法がその場合はとても有効です。でもこれは本人の才能や努力によって左右されます。生涯を賭しても叡智と悟りを得られる人、得られない人、果たしてその結果は?その人次第です。
良い瞑想の師に出会うことも大切です。微妙な心の動きを察して、導いて貰わないと自力での瞑想作業は途中でたぶん頓挫します。非常にそれは困難な道です。
もう一つの道はバクティ(信仰)を通じて、神仏によりその叡智を与えて貰う方法です。ラーマクリシュナの道は正しくこのバクティヨーガの道でした。彼はマザーカーリ神に恋い焦がれてついにカーリー神との一体を得たのみに偉大な光明を得ます。
ジュニャーナ・ヨーガで知られるラマナマハリシでさえ、彼は生涯アルナーチャラ山という山から離れませんでした、この山はアルナーチャラ神(シヴァ神とパールバティー神の合体神、シヴァシャクティ神)の聖地です。若い頃、ラマナマハリシはシヴァ神との強烈な遭遇体験を得ていると聞いたことがあります。
多くのインドの聖者、グルと呼ばれる人達はなんらかの神との繋がりと信仰を持っています。そしてそれこそが偉大な叡智と光明の源泉です。
私は仏陀という聖者はとにかくスペシャルな存在だといつも生徒に言います。多分彼をマネしない方が良いですよっと。(笑)。もっとも最初から誰も真似できないと思いますが。信仰を持たず(もしかしたら持っていたのかもしれませんが・・・・)して、偉大な叡智を手にした彼の方法は私たち凡人には真似できません。
それならもっと簡単で確実な方法をとることを薦めます。多くの聖者が通った道を行った方が得策でしょう。
信仰とは神に祈りを捧げる事であり、特定の神またはグル(霊的なマスター)との縁を強めていく行為です。そうすることでその縁を通して神からあるいは自分が信じるグル(現存、昇天しているかは関係ありません。)から叡智、つまりシャクティと呼ばれる悟りに不可欠ななんらかの力があなたに与えられます。そしてその力があなたの意識を自力では到底不可能な領域にまで引き上げてくれます。
私はフリダヤ瞑想の次にヴェーダシャクティ冥想と日々神に捧げるマントラ行を実践することで可能になると信じています。ヴェーダシャクティ冥想は偉大なグルであるシルディババとインドのいくつかの神々への祈りの冥想です。そして、マントラ行は古代からヒンズー教の聖者達すべてが推奨している神との繋がりを作る声に出して唱えるマントラの詠唱です。カリユガというこの時代には瞑想よりもむしろこうした神への祈りやマントラの詠唱こそが大切だと多くの聖者が言っています。信仰が何故必要かというのは信仰は積極的な他力行だからです。
私自身が今多くの事を学び続けています。インドに現存する聖者の知識や、すでに昇天しているけれども偉大なマスターの知識を学び続けています。そうした知識も皆さんに紹介する中でいずれは個々人がそれぞの自分の信じる神に出会い、そしてグルに遭遇するようになるでしょう。その時がくれば必ず偉大な叡智は一人一人の中に生まれて、多くの人が悟りに到達すると私は信じています。
自力の道、他力の道、どちらを取るかはその人の自由です。でも、一つだけはっきりしているのは仏陀がそうだったようにただ瞑想しているだけでは悟りは得られません。
次は偉大な聖者、シャンカラと瞑想法について書こうと思います。実はシャンカラが教えた瞑想法というのは史実ではどこにもありません。そして彼が信じた神とは誰か?について書きます。
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瞑想はどのような方法であれ、正しい指導者について学べば人生にとってとても有益な結果が得られます。
肉体的にはとても深い休息が得られて、いつまでも若々しくいられます。
精神的にはいつも穏やかで、周りの環境に左右されない自己を確立できます。
運命は好転し、自分が望む出来事が以前よりも多く起きるようになります。
ですが、それだけです。
肉体的にはとても深い休息が得られて、いつまでも若々しくいられます。
精神的にはいつも穏やかで、周りの環境に左右されない自己を確立できます。
運命は好転し、自分が望む出来事が以前よりも多く起きるようになります。
ですが、それだけです。
これだけの結果が得られるのならそれで良いだろうと思う人が大半かもしれませんが、私はそれだけでは満足できません。
本当の求道者は何故瞑想するのかというと理由は悟りを得たいからです。
悟りとは何かというと、それは人生の本当の真理に気がつくことです。そして、神との一体だと私は考えています。
本物の聖者と呼ばれる人達は皆、神との一体を得て、信じられないほどの精神的なパワーと叡智を手にしました。
真に目覚めた人達と私たちとの違いは何か?それは叡智の違いです。彼らは賢く、私たちは愚かです。その叡智こそ悟りです。
彼だけが特別かというとそんなことはありません。私たちもその領域までこの人生を通じて到達することは可能です。その為に瞑想をします。
ですが、その領域、つまり悟りを得るには瞑想だけでは無理です。
そう私はいつしか考えるようになりました。
多くの瞑想法がこれをやっていれば悟れるとか、アセンションを得られるとか、言っていますが、これはすべて嘘だと思った方が良いでしょう。
瞑想は大切ですし、悟りを得るための前段階としてとても重要なテクニックです。ですが、瞑想だけですべてが為されるというのは間違っています。
理由は多くの聖者の話や、古代の文献を調べてみると分かります。また私自身の経験からもそれが正しいと今は結論に至りました。
例えば悟りというと、一番最初に浮かぶのは仏陀、お釈迦様でしょう。彼はどうやって悟りを得たのでしょうか?
仏陀の人生は沢山の文献から知ることができますからとても勉強になります。
最初彼は、30歳の頃に王族の家を棄てて、出家します。そして最初にまず彼はアーラーラ・カーラーマ仙人のところに行きます。
この仙人の教えは「空」でした、この世の一切は「空」であるというのが彼の教えでした。
彼のところに弟子入りして、瞑想を習います。翌日、仏陀は仙人にこう言います。「先生、「空」を悟りました。「空」が分かりました。」
最初仙人はそんな馬鹿なと思いました。自分が一生をかけて得たものをこんな若者が一晩で体得出来るはずはないと・・・・
弟子達も皆怒り出しました。
ですが、仏陀を見ると確かには彼は「空」を体得していました。驚きと共に仙人は仏陀に言います。
「確かにお前は「空」を悟ったようだ、どうやらお前は私を越えて行く者のようだ・・・・」
それを聞いて、弟子達は驚いたそうです。そしてその後、弟子達には師と仏陀との驚くべき会話が聞こえて来ました。
「これからは師と弟子ではなくて、一緒に弟子達を導いてくれないか?」
「それはお断りします。何故なら私の目的は弟子を持つことではありません。それに「空」を得ても私の悩みは解決しないことが分かりましたからここを去ります」
仙人は驚いて聞きます。
「私の教えに不備があると言うのか?」
「はい、「空」を悟るだけでは本当の真理を得たとは言えないんです。あなたはとても優れた仙人だからあえて言いますが、「空」だけでは不完全なんです。」
「世界の一切のものは「空」というのは正しいと思います。すべてはいずれ滅びます。その意味ではすべてはマーヤ(幻想)であり、実体が無いものです。ですから、一切は「空」であることは正しい。」
「そうだ。この世の存在に実体はない。すべては無へと導かれる。であるから、一切は「空」だ、それのどこが間違っている?」
「ならば、一切が「空」であるなら、「空」であると悟ったことも「空」でなければならないはずです。「空」はあくまでも「空」。どこまでいっても「空」でなければならない。となれば、「空」と悟ったということはその時点でそれは「空」ではなくなってしまうと言うことでしょう。」
問いかけと、仏陀の話は更に続きますが・・・・
要するに私は「空」であると悟った私は何かということになります。観察している自分がそれが「空」であると思うことはその時点で私は「空」ではありません。一切が「空」であるのならその私も「空」である必要があるのに・・・そこに矛盾がある以上、この体験はまだ不完全だと仏陀は仙人に伝えます。
そして、更に仏陀はこう言います。
「仮にすべてが「空」であって、この身体も、心も、感覚は仮のもので実体が無いと言っても、今実際にここにこの身体があると感じるのならそれは在るんです。」
「さらに、「空」であることを悟ったとしても、私の悩みである、なぜ人は生まれ、年をとり、病にかかり、死ぬのか?なぜ、様々な苦しみを受けなければならないのか、なぜ身分が違って生まれてくるのか、などといった疑問には答えてはくれません。確かに「空」であると瞑想している間は、その「空」の中に溶け込んでしまい、この上ない平安を得られるのですが、根本的な解決にはなっていません。ということは、これは真理ではないのです。真理ならば、すべての疑問に答えてくれなければならないからです。」
仙人はすべてを認めて、自分では仏陀の疑問に答えられないと知り、仏陀を送り出します。そして、弟子達にも、もし今の会話が理解できて、一緒に仏陀と行きたいものは彼について行きなさいと言いますが、誰一人いなかったそうです。仏陀を見送り、仙人は私たちはこのまま瞑想を続けると言いました。そして、仏陀に言いました。
「もしあなたが真理に行き着いた時には私にその真理を教えてください。あなたは私が届かないところまで到達される方です。」
そして仏陀はこの仙人の元を去ります。
仏教ではこの仙人の教えを「無所有処」と言います。これはインドのヴェーダ、ヨーガで言うところの、見る者(観察者)と見られる者(観察される物)との関係が完全に停止した状態、つまり至高の完全な停止状態を指し、瞑想の最高の意識状態、サマディー(三昧)です。
次に仏陀は別の仙人の所に行き、そこでは「非想非非想処」という境地をたった半日で体得してしまいます。「非想非非想処」は識別の意識さえ消える状態です。つまり私は「空」であるという私さえもなく、瞑想中の静寂の中にある微細な私という感覚さえも完全に停止して無くなる状態です。観察者と観察される物が完全に一体化される体験です。瞑想者としてはこれは最高の意識であり、誰もが喉から手が出るほど得たい体験です。でも、仏陀はそれを得ても満足出来ませんでした。
理由は何も考えない、思考が停止すれば確かに悩みは消えます。ですが、それは瞑想中だけの話しで、瞑想から出てくればまた思考は動きだし、以前として彼の偉大な悩み、生まれて、死に、老い、病、身分の差等の人の苦しみを解決するには?という悩みはそこに有り続けます。
当時のヨーガの修行者達はすべての欲望は自らの考えが生み出すと考えていました。ですから瞑想によって自分の思考を停止することで欲望は抑えられて、結果、カルマは作られず、輪廻の輪から抜け出せると考えました。ですが、仏陀はとても頭の良い人ですぐに気づいてしまいます、どんなに瞑想してもその時は一端は思考は止まり、平安を得ても、瞑想から一端出てきてしまえばまた元に戻ってしまいます。
この時点で一端、仏陀は瞑想を棄てます。次に彼が瞑想をするようになるのはそれから7年後、菩提樹の木の下に座るときです。
無論それは今までの瞑想とはまったく異なる瞑想ですが。2に続きます〜〜〜
>>>続きをたたむ
本当の求道者は何故瞑想するのかというと理由は悟りを得たいからです。
悟りとは何かというと、それは人生の本当の真理に気がつくことです。そして、神との一体だと私は考えています。
本物の聖者と呼ばれる人達は皆、神との一体を得て、信じられないほどの精神的なパワーと叡智を手にしました。
真に目覚めた人達と私たちとの違いは何か?それは叡智の違いです。彼らは賢く、私たちは愚かです。その叡智こそ悟りです。
彼だけが特別かというとそんなことはありません。私たちもその領域までこの人生を通じて到達することは可能です。その為に瞑想をします。
ですが、その領域、つまり悟りを得るには瞑想だけでは無理です。
そう私はいつしか考えるようになりました。
多くの瞑想法がこれをやっていれば悟れるとか、アセンションを得られるとか、言っていますが、これはすべて嘘だと思った方が良いでしょう。
瞑想は大切ですし、悟りを得るための前段階としてとても重要なテクニックです。ですが、瞑想だけですべてが為されるというのは間違っています。
理由は多くの聖者の話や、古代の文献を調べてみると分かります。また私自身の経験からもそれが正しいと今は結論に至りました。
例えば悟りというと、一番最初に浮かぶのは仏陀、お釈迦様でしょう。彼はどうやって悟りを得たのでしょうか?
仏陀の人生は沢山の文献から知ることができますからとても勉強になります。
最初彼は、30歳の頃に王族の家を棄てて、出家します。そして最初にまず彼はアーラーラ・カーラーマ仙人のところに行きます。
この仙人の教えは「空」でした、この世の一切は「空」であるというのが彼の教えでした。
彼のところに弟子入りして、瞑想を習います。翌日、仏陀は仙人にこう言います。「先生、「空」を悟りました。「空」が分かりました。」
最初仙人はそんな馬鹿なと思いました。自分が一生をかけて得たものをこんな若者が一晩で体得出来るはずはないと・・・・
弟子達も皆怒り出しました。
ですが、仏陀を見ると確かには彼は「空」を体得していました。驚きと共に仙人は仏陀に言います。
「確かにお前は「空」を悟ったようだ、どうやらお前は私を越えて行く者のようだ・・・・」
それを聞いて、弟子達は驚いたそうです。そしてその後、弟子達には師と仏陀との驚くべき会話が聞こえて来ました。
「これからは師と弟子ではなくて、一緒に弟子達を導いてくれないか?」
「それはお断りします。何故なら私の目的は弟子を持つことではありません。それに「空」を得ても私の悩みは解決しないことが分かりましたからここを去ります」
仙人は驚いて聞きます。
「私の教えに不備があると言うのか?」
「はい、「空」を悟るだけでは本当の真理を得たとは言えないんです。あなたはとても優れた仙人だからあえて言いますが、「空」だけでは不完全なんです。」
「世界の一切のものは「空」というのは正しいと思います。すべてはいずれ滅びます。その意味ではすべてはマーヤ(幻想)であり、実体が無いものです。ですから、一切は「空」であることは正しい。」
「そうだ。この世の存在に実体はない。すべては無へと導かれる。であるから、一切は「空」だ、それのどこが間違っている?」
「ならば、一切が「空」であるなら、「空」であると悟ったことも「空」でなければならないはずです。「空」はあくまでも「空」。どこまでいっても「空」でなければならない。となれば、「空」と悟ったということはその時点でそれは「空」ではなくなってしまうと言うことでしょう。」
問いかけと、仏陀の話は更に続きますが・・・・
要するに私は「空」であると悟った私は何かということになります。観察している自分がそれが「空」であると思うことはその時点で私は「空」ではありません。一切が「空」であるのならその私も「空」である必要があるのに・・・そこに矛盾がある以上、この体験はまだ不完全だと仏陀は仙人に伝えます。
そして、更に仏陀はこう言います。
「仮にすべてが「空」であって、この身体も、心も、感覚は仮のもので実体が無いと言っても、今実際にここにこの身体があると感じるのならそれは在るんです。」
「さらに、「空」であることを悟ったとしても、私の悩みである、なぜ人は生まれ、年をとり、病にかかり、死ぬのか?なぜ、様々な苦しみを受けなければならないのか、なぜ身分が違って生まれてくるのか、などといった疑問には答えてはくれません。確かに「空」であると瞑想している間は、その「空」の中に溶け込んでしまい、この上ない平安を得られるのですが、根本的な解決にはなっていません。ということは、これは真理ではないのです。真理ならば、すべての疑問に答えてくれなければならないからです。」
仙人はすべてを認めて、自分では仏陀の疑問に答えられないと知り、仏陀を送り出します。そして、弟子達にも、もし今の会話が理解できて、一緒に仏陀と行きたいものは彼について行きなさいと言いますが、誰一人いなかったそうです。仏陀を見送り、仙人は私たちはこのまま瞑想を続けると言いました。そして、仏陀に言いました。
「もしあなたが真理に行き着いた時には私にその真理を教えてください。あなたは私が届かないところまで到達される方です。」
そして仏陀はこの仙人の元を去ります。
仏教ではこの仙人の教えを「無所有処」と言います。これはインドのヴェーダ、ヨーガで言うところの、見る者(観察者)と見られる者(観察される物)との関係が完全に停止した状態、つまり至高の完全な停止状態を指し、瞑想の最高の意識状態、サマディー(三昧)です。
次に仏陀は別の仙人の所に行き、そこでは「非想非非想処」という境地をたった半日で体得してしまいます。「非想非非想処」は識別の意識さえ消える状態です。つまり私は「空」であるという私さえもなく、瞑想中の静寂の中にある微細な私という感覚さえも完全に停止して無くなる状態です。観察者と観察される物が完全に一体化される体験です。瞑想者としてはこれは最高の意識であり、誰もが喉から手が出るほど得たい体験です。でも、仏陀はそれを得ても満足出来ませんでした。
理由は何も考えない、思考が停止すれば確かに悩みは消えます。ですが、それは瞑想中だけの話しで、瞑想から出てくればまた思考は動きだし、以前として彼の偉大な悩み、生まれて、死に、老い、病、身分の差等の人の苦しみを解決するには?という悩みはそこに有り続けます。
当時のヨーガの修行者達はすべての欲望は自らの考えが生み出すと考えていました。ですから瞑想によって自分の思考を停止することで欲望は抑えられて、結果、カルマは作られず、輪廻の輪から抜け出せると考えました。ですが、仏陀はとても頭の良い人ですぐに気づいてしまいます、どんなに瞑想してもその時は一端は思考は止まり、平安を得ても、瞑想から一端出てきてしまえばまた元に戻ってしまいます。
この時点で一端、仏陀は瞑想を棄てます。次に彼が瞑想をするようになるのはそれから7年後、菩提樹の木の下に座るときです。
無論それは今までの瞑想とはまったく異なる瞑想ですが。2に続きます〜〜〜
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私が尊敬する聖者の言葉に「生徒主義からの脱却」というのがあります。
生徒主義とは面白い表現ですが、スチューデンティズムと言っています。精神世界の通例である師と弟子の間違った奴隷関係から抜け出しなさいと言っています。
生徒主義とは面白い表現ですが、スチューデンティズムと言っています。精神世界の通例である師と弟子の間違った奴隷関係から抜け出しなさいと言っています。
長い間は私たちは偉大な聖者やマスターを前にすると尊敬することを通り越してずっと依存し、奴隷の様になる傾向があります。
そして、マスター達もそれに甘んじて、自分達を越える偉大な魂やマスターを作らずに何千年も過ごしています。
これは神を前にした職場放棄だと聖者は言います。
先生とはなんでしょうか?それはただ先に生まれた人、人生においても精神世界においても少しあなたよりも先輩だというだけです。
神とは聖者とはものすごく偉大な存在です。霊的な教師はあなたよりも少し立派です。でも、だからといってずっと付き従う必要はありません。
無論、尊敬することは大切ですが、ずっと奴隷のように何でも言うことを聞いて、自分を下に置く必要はありません。
私は生徒に対していつも自由にしなさいと言います。色々と試してみたら良いですよ。と言います。
彼や、彼女に教えたテクニックや方法、知識を通して彼らが何をするのか?それは彼ら自身が見つけることです。
その目的が人を助けたい、もっと自分の魂を向上させたいというのであれば何をしてもオッケイです。私は止めません。
私と同じように教え、人を導く者が出てきたらそれは幸せなことです。それにルールも制限もありません。
ずっと私の言うことを聞き続ける必要はありません。生徒を私に縛り付けることはしません。
私も今現在も聖者の智恵を学び、成長している最中です。あなたもそうです。だから同じ仲間です。ただ少しだけ私の方が何かを知っているのと、よりそれに確信を持っているだけです。
もしかしたらあなたの方が私よりも先に神を本当に見いだすかもしれません。その時は私はあなたからも何かを学びたいです。
30年近く、精神世界の様々な方法を学ぶ中で、伝統の名の元で、あるいは師と弟子の関係性を理由にずっと生徒を自分の元に縛り付けようとする偽物の教師達を私は数多く見てきましたが、そこには本当に神がいるのでしょうか?生徒達の目は神を見ているでしょうか?それともただ師や教師の顔色をうかがっているだけなのでしょうか?師は自分を見て欲しいのでしょうか?それとも彼らの目に本物の神が映ることを希望するのでしょうか?
あれが出来るから優れている、あれを自分の師から与えて貰ったからあなたの方が上だ、私が下だ、それとあなたが神と一つになるということとなんの関係があるんでしょうか?
師があなたを認めることと、神があなたを認めることはまったく違います。もし、その師が偽物ならあなたは偽物の師に認めて貰うだけで本望でしょうか?
偽物の師を掴まえてしまった人達は不幸です。恐らく偽物と本物の違いはあなたを縛るか縛らないかで分かります。本物の師はあなたが神に向かうことにしか興味がありません。あなたを掴まえる必要性は彼らにはありません。本物の師を見つけてください。そうすればあなたは神により早く近づけます。
神は自由です。誰の心にも宿り、奇蹟を起こします。それは誰にでも起こることです。
だから自分をずっと下に置いておくことは辞めてください。神もマスターも師もあなたの友人です。もちろん尊敬はしなさい。でも必要以上に自分を下に置いておく必要はありません。
師が出来たことはあなたにもできます。マスターが行うことはあなたにも可能なんです。マスターだけが特別神に愛されて、あなたが神に愛されない道理はありません。
だから安心して学び、そして学んだ事を生かし、あなたの心に従ってください。私はそれをいつも支持します。
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そして、マスター達もそれに甘んじて、自分達を越える偉大な魂やマスターを作らずに何千年も過ごしています。
これは神を前にした職場放棄だと聖者は言います。
先生とはなんでしょうか?それはただ先に生まれた人、人生においても精神世界においても少しあなたよりも先輩だというだけです。
神とは聖者とはものすごく偉大な存在です。霊的な教師はあなたよりも少し立派です。でも、だからといってずっと付き従う必要はありません。
無論、尊敬することは大切ですが、ずっと奴隷のように何でも言うことを聞いて、自分を下に置く必要はありません。
私は生徒に対していつも自由にしなさいと言います。色々と試してみたら良いですよ。と言います。
彼や、彼女に教えたテクニックや方法、知識を通して彼らが何をするのか?それは彼ら自身が見つけることです。
その目的が人を助けたい、もっと自分の魂を向上させたいというのであれば何をしてもオッケイです。私は止めません。
私と同じように教え、人を導く者が出てきたらそれは幸せなことです。それにルールも制限もありません。
ずっと私の言うことを聞き続ける必要はありません。生徒を私に縛り付けることはしません。
私も今現在も聖者の智恵を学び、成長している最中です。あなたもそうです。だから同じ仲間です。ただ少しだけ私の方が何かを知っているのと、よりそれに確信を持っているだけです。
もしかしたらあなたの方が私よりも先に神を本当に見いだすかもしれません。その時は私はあなたからも何かを学びたいです。
30年近く、精神世界の様々な方法を学ぶ中で、伝統の名の元で、あるいは師と弟子の関係性を理由にずっと生徒を自分の元に縛り付けようとする偽物の教師達を私は数多く見てきましたが、そこには本当に神がいるのでしょうか?生徒達の目は神を見ているでしょうか?それともただ師や教師の顔色をうかがっているだけなのでしょうか?師は自分を見て欲しいのでしょうか?それとも彼らの目に本物の神が映ることを希望するのでしょうか?
あれが出来るから優れている、あれを自分の師から与えて貰ったからあなたの方が上だ、私が下だ、それとあなたが神と一つになるということとなんの関係があるんでしょうか?
師があなたを認めることと、神があなたを認めることはまったく違います。もし、その師が偽物ならあなたは偽物の師に認めて貰うだけで本望でしょうか?
偽物の師を掴まえてしまった人達は不幸です。恐らく偽物と本物の違いはあなたを縛るか縛らないかで分かります。本物の師はあなたが神に向かうことにしか興味がありません。あなたを掴まえる必要性は彼らにはありません。本物の師を見つけてください。そうすればあなたは神により早く近づけます。
神は自由です。誰の心にも宿り、奇蹟を起こします。それは誰にでも起こることです。
だから自分をずっと下に置いておくことは辞めてください。神もマスターも師もあなたの友人です。もちろん尊敬はしなさい。でも必要以上に自分を下に置いておく必要はありません。
師が出来たことはあなたにもできます。マスターが行うことはあなたにも可能なんです。マスターだけが特別神に愛されて、あなたが神に愛されない道理はありません。
だから安心して学び、そして学んだ事を生かし、あなたの心に従ってください。私はそれをいつも支持します。
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ある新しい考え方に会ったときに私たちはそれをそのまますべてを鵜呑みにするのも間違っていますし、また、頭から否定するのもやはり、大人げないと思います。
大切なのはその考えを今までの自分の経験とを照らし合わせて、自分にとって必要な部分とそうでない部分とをちゃんと見分ける事と、その考えと自分の今の考え方との共通点と相違点を見つけだすことだと思います。
その上で、その考え方に惹かれるのであれば、それからは疑ったり、抵抗するのは辞めて、とにかく飛び込んでしばらく素直に受け入れることです。疑いながらやっても意味がないので
信じて、その方法論を試してみてください。それでしっくり来ないのなら辞めれば良いだけです。
なんでもそうですが、少なくとも一年ぐらいは一つの考え方ややり方を試して見る必要があります。そのぐらいの期間は絶対に必要です。その間は一度決めたことはやり続けることです。
一番良くないのは疑いながらすることです。するのなら信じてやってみる、嫌ならもう辞めなさい。中途半端が一番良くありません。それは自分のエネルギーの無駄遣いです。
いずれにしろ、自分の前に提示されたその事を通じてきっと何かを学ぶ必要せいがあるから、それがやってきたんだという真摯な態度が必要ではないかなと思います。
結局それは自分の許容量を試されていると言えるでしょうね。
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その上で、その考え方に惹かれるのであれば、それからは疑ったり、抵抗するのは辞めて、とにかく飛び込んでしばらく素直に受け入れることです。疑いながらやっても意味がないので
信じて、その方法論を試してみてください。それでしっくり来ないのなら辞めれば良いだけです。
なんでもそうですが、少なくとも一年ぐらいは一つの考え方ややり方を試して見る必要があります。そのぐらいの期間は絶対に必要です。その間は一度決めたことはやり続けることです。
一番良くないのは疑いながらすることです。するのなら信じてやってみる、嫌ならもう辞めなさい。中途半端が一番良くありません。それは自分のエネルギーの無駄遣いです。
いずれにしろ、自分の前に提示されたその事を通じてきっと何かを学ぶ必要せいがあるから、それがやってきたんだという真摯な態度が必要ではないかなと思います。
結局それは自分の許容量を試されていると言えるでしょうね。
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なかなか賢い子でトイレで大きい方をすると必ずキャッキャッ!と小さくないて呼びに来ます。たぶんクッサイから早く片付けろって事だと思いますが(^^;
最近のお気に入りは窓辺に置いた二つ重ねの円座クッションに収まって寝ることです。夜もそこに寝ているみたいです。フワフワの冬用ベットをもう少ししたら出しても良いかなと思っています。
玄関で寝そべるのも好きで、誰も相手してあげないと大抵玄関で寝ています。タイルが冷たくて気持ち良いのかな?
本当に幸せになりたければその教えは非常にシンプルです。
自分が思っていることはすべて間違っていると素直に認めることです。
もし自分が今本当に幸せだと感じられないのなら、本当の真理はきっとあなたが思いもよらないものです。
自分が思っていることはすべて間違っていると素直に認めることです。
もし自分が今本当に幸せだと感じられないのなら、本当の真理はきっとあなたが思いもよらないものです。
だからと言って自分が駄目だなんて思わないこと。
ただ知らない事を認めて、自分を捨て去りなさい。そのエゴとプライドを捨て去りなさい。
そして、神に委ねなさい。
「あなたがしたいように私を変えてください。そして私を真理に出会わせてください。」
ただそう祈るだけです。
幾ら瞑想しても、行を積んでも自分の望みばかりが大きい人は神が入り込む余地がありません。
なので何も変わりません。
瞑想をしても行を積んでも悪いことがばかりが起こるのならそれはただ前世のカルマが今解消されているだけです。
決してそこで自分を傷つけたり、おかしな事をしてはいけません。つねに普通でいなさい。
あなたがなりたい自分になる事を辞めて、神がさせたいあなたになりなさい。
そうすれば誰でも簡単に幸せになれます。
ひとしずくでもあなたのハート(魂)が神の蜜を味わえば、すべてが変わります。
それには委ねることと、待つという忍耐だけが必要です。
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ただ知らない事を認めて、自分を捨て去りなさい。そのエゴとプライドを捨て去りなさい。
そして、神に委ねなさい。
「あなたがしたいように私を変えてください。そして私を真理に出会わせてください。」
ただそう祈るだけです。
幾ら瞑想しても、行を積んでも自分の望みばかりが大きい人は神が入り込む余地がありません。
なので何も変わりません。
瞑想をしても行を積んでも悪いことがばかりが起こるのならそれはただ前世のカルマが今解消されているだけです。
決してそこで自分を傷つけたり、おかしな事をしてはいけません。つねに普通でいなさい。
あなたがなりたい自分になる事を辞めて、神がさせたいあなたになりなさい。
そうすれば誰でも簡単に幸せになれます。
ひとしずくでもあなたのハート(魂)が神の蜜を味わえば、すべてが変わります。
それには委ねることと、待つという忍耐だけが必要です。
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他人が何を信じ、何を信仰していても、その祈りの邪魔をする権利はあなたにはありません。
そして、もしあなたが信じられるものが変わったのならその心に従いなさい。
恐れや権力でもってあなたの心を縛り付ける教えがあったとしたらそれは本物ではありません。
そして、もしあなたが信じられるものが変わったのならその心に従いなさい。
恐れや権力でもってあなたの心を縛り付ける教えがあったとしたらそれは本物ではありません。
本物の教えは来るのも自由、去るのも自由です。そこを去ったら、それを辞めたらあなたは駄目になると言われたら笑って無視しなさい。本当の神は決してそんな事は言いませんし、本当のグルとあなたが繋がったらそのグルの愛によってあなたの方がどんなにそのグルから離れようとしてもグルの愛があなたを離しません。
その優しさと愛によってあなたは一生涯を守られて、育まれます。それには一切の強制はありません。それが本当のグルの教えです。
無論何でも学ぶ上でのルールや手順はありますが、それ自体があなたの人生や感情までを縛り付けるような呪縛になるようなことは一切ありません。大切なのは心です。
本物のグルは知っています。あなたの心がグルに向かっていなければ幾ら何を持って強制してやらせても無駄だと。だから初めから何も彼らは強制しません。
最近、瞑想を教えていても正しい祈り、プジャよりももっと大切なのは心だと言うことが凄く分かってきました。
ただプジャの字面や発音を正しく言うことが重要ではなくて、そこにどれだけ自分が信じるグルや神への愛があるかが重要です。
心が本当に開いている時は圧倒的な光とパワーがやってくるのが分かります。
昔は色々な事を学んでいると伝統という名の元で色々な事に縛られていた気がしますが、インドに行った時にある聖者にヴェーダの教えは誰の物でもないし、誰かに帰属する物でもない、それを本当に求めるものなら誰にもそれは与えられるし、大切なのは心だと教わりました。
生徒にも良く聞かれます。
神のマントラを日々唱えるときにこれでやり方はあっていますか?
瞑想のやり方はこれで良いですか?
確かに最初は教わった通りにすることが大切です。そうしないと最初から飛んでもない方向に行ってしまいますから、最初はお手本通りに冒険することなく行うことが大切です。
でも、段々と自分が本当に神と繋がってきた、いつでも神のエネルギーを感じられると確信に至るときが来ます。
そうなったら大切なのは形ではなくて、心です。無論最初から心を込めることはとても大切ですが、あなたがより熟達した瞑想者や、修行者になったのならより大切なのは心です。
心を神に向けている限り間違いはありません。このやり方でなければ、あれは間違っている、これが正しいなどというものはどこにもありません。
神から見れば人間世界のすべては間違いでもあり、またすべては正解です。
だからあなたの心を見てください。そこに本当にハートがあり、愛を持ってそれを信じているのならその祈りは決して間違っていません。
誰かがあなたの信じる物を非難する人がいたらそれは神からの揺さぶりだと思えば良いです。あなたが何を本当に信じ、何に本当に愛を向けているのかを試す為にその人が遣わされただけです。だから笑って、やり過ごしなさい。ただ無視しなさい。
人の祈りを邪魔する者の面倒は神がいずれ見てくれますから、あなたは心配せずに自分の信じた道を生きれば良いです。
世界は自由です。これだけが唯一、これだけが真実という人達の言葉に耳を貸す必要はありません。そこがあなたにとって居心地が良くない場所なら他に移りなさい。我慢する理由はどこにもありません。
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その優しさと愛によってあなたは一生涯を守られて、育まれます。それには一切の強制はありません。それが本当のグルの教えです。
無論何でも学ぶ上でのルールや手順はありますが、それ自体があなたの人生や感情までを縛り付けるような呪縛になるようなことは一切ありません。大切なのは心です。
本物のグルは知っています。あなたの心がグルに向かっていなければ幾ら何を持って強制してやらせても無駄だと。だから初めから何も彼らは強制しません。
最近、瞑想を教えていても正しい祈り、プジャよりももっと大切なのは心だと言うことが凄く分かってきました。
ただプジャの字面や発音を正しく言うことが重要ではなくて、そこにどれだけ自分が信じるグルや神への愛があるかが重要です。
心が本当に開いている時は圧倒的な光とパワーがやってくるのが分かります。
昔は色々な事を学んでいると伝統という名の元で色々な事に縛られていた気がしますが、インドに行った時にある聖者にヴェーダの教えは誰の物でもないし、誰かに帰属する物でもない、それを本当に求めるものなら誰にもそれは与えられるし、大切なのは心だと教わりました。
生徒にも良く聞かれます。
神のマントラを日々唱えるときにこれでやり方はあっていますか?
瞑想のやり方はこれで良いですか?
確かに最初は教わった通りにすることが大切です。そうしないと最初から飛んでもない方向に行ってしまいますから、最初はお手本通りに冒険することなく行うことが大切です。
でも、段々と自分が本当に神と繋がってきた、いつでも神のエネルギーを感じられると確信に至るときが来ます。
そうなったら大切なのは形ではなくて、心です。無論最初から心を込めることはとても大切ですが、あなたがより熟達した瞑想者や、修行者になったのならより大切なのは心です。
心を神に向けている限り間違いはありません。このやり方でなければ、あれは間違っている、これが正しいなどというものはどこにもありません。
神から見れば人間世界のすべては間違いでもあり、またすべては正解です。
だからあなたの心を見てください。そこに本当にハートがあり、愛を持ってそれを信じているのならその祈りは決して間違っていません。
誰かがあなたの信じる物を非難する人がいたらそれは神からの揺さぶりだと思えば良いです。あなたが何を本当に信じ、何に本当に愛を向けているのかを試す為にその人が遣わされただけです。だから笑って、やり過ごしなさい。ただ無視しなさい。
人の祈りを邪魔する者の面倒は神がいずれ見てくれますから、あなたは心配せずに自分の信じた道を生きれば良いです。
世界は自由です。これだけが唯一、これだけが真実という人達の言葉に耳を貸す必要はありません。そこがあなたにとって居心地が良くない場所なら他に移りなさい。我慢する理由はどこにもありません。
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さて、私の教えている瞑想やプログラムとは直接関係はありませんが、11月ですが、私も現在師事している聖者スワミカレスワール師が東京に11月3〜4日で来日されます。
今回は一般向けのダルシャン(講話)、新人伝法(最初の弟子入りで、スワミとの繋がりを作るパーソナルマントラと自分を守ってくれるパワーオブジェクトを物質化してくれます。)、インタビュー(個人的に相談等があればそれを聞いて、神にスワミが代わりにお願いをしてくれます。このときも悩みや問題を解決するためになんらかのパワーオブジェクトを物質化してくれると思います。)の他に、特別に子宮のチャクラを浄化するヤントラのワークショップを2日間に通して行われます。
この子宮のヤントラは7000年以上前にリシによって発見されたもので、このヤントラを一生涯心の中で描き、祈りを捧げればどんな過去のカルマも浄化されると言われています。子宮はもっともパワフルなシャクティの出入り口です。女性はもとより、男性もこの子宮のチャクラの浄化を行う事で母親から生まれた時点から今までのすべての罪が消えると言われています。人間関係の改善、キリストの様なシッディの獲得その他あらゆる面においてこのヤントラは自分を守護してくれます。
日本で教えられるのはたぶん今回だけだろうということなので、必要性を感じる方は是非ご参加ください。
スワミの場合、今回だけと言って何回もするということは無いので本当に今回だけかと思います(^^)
11月は私の方もワークショップもあるのでそっちにも沢山参加して頂きたいですが、これはまととない機会で私一人で独り占めはしたくないので多くの人に知って頂きたいと思います。今の私があるのはすべてスワミのおかげです。スワミカレスワールはインドの政府も認めている本物の聖者です。インドの国宝・聖者ヴィーラブラムヘンドラの予言によれば、スワミ・カレスワールの出現は予言されていて、彼の姿を一目見るだけで人間の一生にとって十分な恩恵が与えられると言われています。
以前は私もそんなことは信じていませんでしたが、数年前にシルディサイババのサマディ(お墓)を訪れてからは考え方が一変しました。本物の聖者と呼ばれる人達のエネルギーは肉体を去った後もその地に留まり、生前使っていた物や踏みしめた大地にも聖者のエネルギーは留まります。ババのテンプルを訪れただけで私の瞑想の体験はすべて変わってしまいました。何年も何十年も瞑想しても得られない体験を聖者は一瞬のうちに私達に与えて
この子宮のヤントラは7000年以上前にリシによって発見されたもので、このヤントラを一生涯心の中で描き、祈りを捧げればどんな過去のカルマも浄化されると言われています。子宮はもっともパワフルなシャクティの出入り口です。女性はもとより、男性もこの子宮のチャクラの浄化を行う事で母親から生まれた時点から今までのすべての罪が消えると言われています。人間関係の改善、キリストの様なシッディの獲得その他あらゆる面においてこのヤントラは自分を守護してくれます。
日本で教えられるのはたぶん今回だけだろうということなので、必要性を感じる方は是非ご参加ください。
スワミの場合、今回だけと言って何回もするということは無いので本当に今回だけかと思います(^^)
11月は私の方もワークショップもあるのでそっちにも沢山参加して頂きたいですが、これはまととない機会で私一人で独り占めはしたくないので多くの人に知って頂きたいと思います。今の私があるのはすべてスワミのおかげです。スワミカレスワールはインドの政府も認めている本物の聖者です。インドの国宝・聖者ヴィーラブラムヘンドラの予言によれば、スワミ・カレスワールの出現は予言されていて、彼の姿を一目見るだけで人間の一生にとって十分な恩恵が与えられると言われています。
以前は私もそんなことは信じていませんでしたが、数年前にシルディサイババのサマディ(お墓)を訪れてからは考え方が一変しました。本物の聖者と呼ばれる人達のエネルギーは肉体を去った後もその地に留まり、生前使っていた物や踏みしめた大地にも聖者のエネルギーは留まります。ババのテンプルを訪れただけで私の瞑想の体験はすべて変わってしまいました。何年も何十年も瞑想しても得られない体験を聖者は一瞬のうちに私達に与えて









