想像力という智慧

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先日の秋葉原の事件は犯人の青年のやったことは許されることではありませんが、可愛そうな人だと私は思いました。

自分の生い立ちや今置かれた状況が世界の全てあって、親を呪い、会社を呪い、社会を呪っての行動だとしたら本当に可愛そうだなと思いました。自分を含めてすべての人を不幸に落とすのはなんて愚かで可愛そうな人生でしょう。

想像力が欠如してくると人は時にトンデモない行動を取ることがあります。

想像力とは人生において沢山の選択肢を見つける力です。

一つの事がダメでも、それで落ち込んだり、しがみついたりせずに他にも色々な道がある、何かを実現する上で他にもやり方が沢山あるはずだと想像できる人が真に智慧ある人です。

昔、ある聖者はこう言いました。あらゆる犯罪の原因は無知から来る・・・・と。

無知と言うのは知識が無いとかではありません。学歴とかそういうものではありません。どんな良い学校を出ても無知な人は沢山います。

無知とは人が本来持っている想像力が無いということです。
若い世代と接していると情報が簡単に手に入るせいで逆に世界を知識だけで知ってしまった気でいる人達が多いように思えます。

そして、自分の未来さえも、このまま行ったらもう先はこうだと・・・簡単に結論を出して何もせずに諦めてしまう人達が非常に多い気がします。

自分の子供の頃はインターネットも無かったですし、隣の町に行くだけでも非常に大きな冒険でした。この世界には自分が知らない未知なる世界が無限に広がっていると思え、いつも心の中で沢山の想像をしていたものです。

それが今はなかなかそうした想像が出来ない社会になってしまっています。便利だけど不幸です。

でも、視点を変えれば今の社会でも昔と何ら変わりません。

自分が見ているもの、経験している世界がすべてだと思うのは幻想です。物質的な成功を得たとしても・・・それは幻想です。そこに本当の価値はありません。初めからそれが分かっていたら例えこの社会でどんな生活をしようともそんなことで落ち込むことなどあり得ません。

世界とは単純に目に見えるものだけがすべてではありません。それを知っているか知らないかでまったくこの世界との関わり方、感じ方さえ変わってきます。

幸いにも私は子供の頃から神の存在を信じていました。そして、この世界は決して見える物によって支配されているのではないというのを心のどこかで知っていたので、仮にどんな不幸な経験をしてもそれによって自暴自棄になることはありませんでした。

つまりそれがすべてじゃない、他にも世界にはあるし、この人生は自分次第で如何様にも変わるという事を知っていたので、どんな事が起きてもそれを乗り越えることが出来ました。最終的にすべてを決めているのは神であって自分ではありませんから、四の五の悩んでも意味が無いです。

たぶん、それが想像力じゃないでしょうか?そして、神とか信仰とか、宗教というのものはそうした想像力がなければ決して生まれてきません。

目に見えるものがすべて、お金、出世、勝ち組、負け組とか、そんなことだけがすべてだと思って生きていればいずれ誰もが自分の人生に限界を感じるようになるでしょう。その結果ストレスが溜まり、溜まり、いつか爆発するんだと思います。大なり小なり何かを破壊する行動を取るようになります。

それは魂から見たら正常な人生とは言えません。

何故、人は頭で分かっているのにそれでも不調和な行動を取るのか?時は信じられないような愚行を犯すのか?

理由は正常じゃないからです。やっぱりどこかが狂っていて、それが積もり積もると変な行動を取るようになるんです。どこかで無理をして自分を追い詰めてしまっているからです。

想像力が無いと人は自分を追い詰めてしまいます。

世界はもっと広い、もっと可能性に満ちています。それを知るには想像力が必要です。

苦しいときほど、沢山の選択肢を見つけられる想像力という智慧を私たちは育てなければなりません。
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